前回のコラム「なぜ道の駅は儲からなくても店を出せるのか」は、前々回のコラム「なぜ地方は補助金をもらっても衰退するのか」と同じくらいの反響を頂戴しました。ありがとうございます。引き続き、読者の皆さんに「地方創生のヒント」を差し上げられれば、本当にありがたいことです。
さて、今回のコラムは、二宮金次郎(尊徳、1787~1856)を採り上げたいと思います。なぜ、二宮金次郎なのでしょうか。実は、彼こそ江戸時代の後期から末期にかけ、地方創生を真剣に考えていた先駆者だったからです。
金次郎は、人口減少の栃木・真岡を救った地域再生のプロ
江戸時代(徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年から、大政奉還をする1867年まで)というと、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。実は、前期は急激な人口増加があったものの、日本は江戸中期以降となると、全国の人口がほぼ横ばいとなり、地域差こそあるものの、江戸時代後期に向けては、飢饉の発生などを含め人口減少に悩む地域が多く出ていました。
その中でも現在の北関東にあたる地域は人口減少が激しく、1600年から1700年代前半までは約70万しかいなかった人口が220万ほどに急増した後、1800年代に向けては約160万人まで人口減少したという記録が残っているほどです。
その北関東に位置し、困窮していた下野国・桜町領(現在の栃木県旧二宮町、現在は真岡市に編入)の再生で大変な業績を挙げたのが、二宮金次郎です。
もともと、金次郎の出身は現在の神奈川県小田原市です。百姓時代から才能をあらわした金次郎は、小田原藩の家老・服部家で武家奉公人として働きますが、そこで服部家の財政を立て直し、小田原藩主の大久保忠真(ただざね)の目に留まります。下野の桜町領は、藩主の分家の領地であり、その再生を任されたのです。大成功を収めた金次郎は、その後ついに幕臣に登用され、徳川家にとって重要な日光の地の再生事業も任されることになります。
私は二宮金次郎と言えば小学校の校庭の片隅に置かれた、薪を背負って仕事をしながらも本を読んでいる「勤勉と勤労」の象徴的な姿として教わりました。皆さんの多くも、そのように思われているのではないでしょうか。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら