志村けんの街、東村山は「多摩湖」の賜物だった 西武新宿線系統の要衝、昔は高級住宅地構想も

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東村山の住民が川越鉄道に資本参加しなかった理由は判然としないが、川越鉄道は甲武鉄道を通じて東京の資本家たちから多額の出資を受けていた。潤沢な資金が集まっていたので、東村山からの出資を必要としなかったこと、東村山の一部地主たちが鉄道反対のために線路予定地に樹木や花卉の球根を植えるなどして補償を求めるなどの妨害工作をしたことが一因にあるようだ。

しかし、それでも住民たちは駅を諦めず、運動はつづいた。駅開設派の住民たちは敷地や資金を寄付し、建設の労働力まで自分たちで賄うという条件を出す。それが奏功し、川越鉄道は東村山駅の設置を容認した。

東村山駅が仮ではなく本設の駅として復活するにあたり、大きな役割を果たしたのが地元の名士でもあった市川幸吉だ。市川は東村山で製粉業を興し、幕末にはパンの原料となる小麦を横浜の開港場へ納入する業者となる。これをきっかけに、養蚕と製茶業にも事業を拡大。財を築いた市川は、東村山駅の復活に際しても当時の金額で150円を寄付するなどの貢献をした。

こうして駅は開業。仮駅とは場所が変わって現在の位置になり、駅名も東村山となったが、わずか半年で駅は復活を遂げた。

駅はできたが発展は遅かった

正式な鉄道駅が開業したことで東村山駅周辺は発展していくかと思われたが、現実はそれほど甘くなかった。農村然としていた駅周辺は鉄道の開業とともに少しずつ都市化していたものの、その歩みは驚くほど遅かった。川越鉄道の沿線には、川越のほか所沢や入間川(現・狭山市)といった街があり、東村山駅の利用者を大きく上回っていた。繁華街のにぎわいや利用者数から考えれば、川越鉄道の経営陣が駅開設を躊躇したことはうなずける。

東村山駅東口には、“志村けんの木”と名付けられたケヤキが3本植樹されている。新緑の季節には青々として葉をつける(筆者撮影)

現在の東村山駅には東口と西口があり、東口の駅前広場には2020年に新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったコメディアンの志村けんさんを由来とする「志村けんの木」や、2021年に建立された「志村けんの像」がある。繁華街も東口側に広がっている。

これだけを見ると、東村山駅は開設時から東口側がにぎわっていたかのように映るが、駅開設当時に東口はなく、町のにぎわいは西口だけだった。

明治期、銀行をはじめとする近代的な金融機関が各地で続々と開業。これら銀行によって産業が興り、経済が発展。それが都市化を促すわけだが、駅が開業してからも東村山に金融機関が進出していなかった。

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