志村けんの街、東村山は「多摩湖」の賜物だった 西武新宿線系統の要衝、昔は高級住宅地構想も
1952年、西武鉄道はそれまで高田馬場駅止まりだった「村山線」を西武新宿駅まで延伸し、駅は暫定としつつも悲願だった新宿への乗り入れを果たした。高田馬場駅―東村山駅間を結んでいた同線は新宿延伸に伴い「新宿線」へと路線名を変更。今年2022年は西武新宿開業・路線名改称70年の節目にあたる。
新宿延伸の歴史は多くの研究者によってさまざまな角度から分析・執筆されている。他方、反対側の東村山駅側が研究対象になることは少なかった。戦後の東村山駅一帯はベッドタウンとして人口が増加し、一見すると東京のどこにでもあるような街になった。しかし、同駅の歴史をたどると、帝都として発展する東京には欠かせない役割を担っていたことが浮かび上がってくる。
当初できた駅は「仮」だった
東村山に鉄道を敷設する最初の動きは、現在の西武国分寺線を開業した川越鉄道によるものだった。1889年、甲武鉄道(現・JR中央線)が新宿駅―立川駅間を開業すると、多摩の物流は大きく変わった。同線が通らない地域でも鉄道の恩恵を得るため、国分寺駅から北上する形で川越鉄道が計画された。
川越鉄道はその名の通り、江戸時代から舟運で栄えた埼玉県の川越を中心にした鉄道会社だったが、その発起人に川越の商人たちの名前はない。彼らは自分たちが築いた舟運の物流ネットワークが鉄道によって崩壊することを恐れ、反対の立場をとっていた。川越鉄道は入間・狭山の実業家たちを中心に進められた。
同鉄道は国分寺駅から北上して川越を目指したが、柳瀬川への架橋工事が遅れることになり、川の南岸に仮駅の久米川停車場(現・東村山駅)を設置。1894年、暫定的に国分寺駅―久米川駅間で運行を開始した。
翌年、川越鉄道は川越(現・本川越)駅まで延伸開業した。これにより、仮駅だった久米川停車場は廃止される。だが、短期間ながら停車場が設置されたことで住民は鉄道の利便性を実感し、停車場の存続を要望した。しかし、川越鉄道は拒否。同鉄道の出資者に東村山の住民がいなかったこともあり、仮ではない本設の駅開設は実現しなかった。
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