源平合戦で木曽義仲の活躍支えた「謎の参謀」正体 文武の達人「大夫房覚明」とは何者なのか
「平家は大軍だ。砺浪山を越えて、広き場に出て、真正面から戦を仕掛けてくるであろう。正面からぶつかる戦は、軍勢が多いか少ないかによって、勝敗は決まる。大軍により攻めかけられては、われらが不利。よって、まずは、旗持ちを先頭に立てよ。そして、白旗をさし上げるのじゃ。
そうすれば平家は『それ、源氏の先陣が向かってきたぞ。大軍であろう。敵は地理に明るく、われわれは無案内。囲まれては終わりじゃ。この山は四方が厳石なので、敵は背後には回るまい。しばらく降りて、馬を休めよう』とでも言って、山中で馬から降り、休息するであろう。そのとき、この義仲が適当に相手しつつ、日暮れを待ち、平家の大軍を倶梨迦羅の谷に追い落とそうと思う」(『平家物語』を筆者が現代語訳)
そして、義仲は実際に、白旗を先頭にして大軍に見せる作戦に出た。これを見た平家方は、義仲の読みどおり、木曽軍を大軍と思い、砺浪山中の「猿の馬場」で馬から降りて休息したという。
これが倶利伽羅峠の戦いでの勝利(『倶利伽羅峠で源氏に負けた平家武将の話が切ない』参照)につながる。
田舎者ぞろいの木曽軍で貴重な存在だった覚明
一方、義仲は羽丹生に陣をしき、四方を見回していた。すると、木の間に神社を見つける。土地の者を呼び出して聞くに八幡宮であった。
源氏の氏神との邂逅と戦の勝利を結び付け喜んだ義仲は、大夫房覚明なる者を呼び、祈祷のための願書を書かせる。濃い藍色の直垂、黒革威の鎧を着ている覚明は、箙(矢入れ)から小硯と紙を取り出し、御前で願書をしたためる。これをもって『平家物語』は「文武二道の達人よ」と覚明を讃えるのであるが、では、この覚明とは何者であろうか。
『平家物語』によると、覚明はもともと「蔵人道広」といい、勧学院(藤原氏の教育機関)に出仕していた。ところが出家し「最乗房信救」を名乗り、奈良の興福寺に出入り。以仁王が挙兵し、加勢を興福寺に求めた際の返信は、覚明が書いたという。それは「清盛は平家のカス、武家のゴミ」という激越な言葉を含んだものだった。
清盛は怒り、覚明を捕え殺そうとするが、覚明は奈良から逃走。北国に走り、義仲に書記官として仕えることになるのである。覚明は出家当初、北陸で修行していたこともあり、同地に赴いたのだろう。
それはともかく、田舎者ぞろいの木曽軍にあって、勧学院に出仕した経験もある知識人・覚明の存在は貴重であり、頼もしいものであっただろう。
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