1871年に統一されたドイツ帝国の政治風土は、カトリック的、社会主義的、市民的、保守主義的な四つの政治文化に分かれていた。
第1次世界大戦後、ワイマール共和国(1919〜33年)になっても、その構造は基本的に同じだった。しかし、30年以降ナチが急激に勢力を伸ばす時期に、カトリックと社会主義の勢力に変化は少なかったのに対し、保守派と市民的勢力は衰退し、特に市民派は壊滅的に凋落した。
ワイマールからナチへの暗転──。
共和国の支持基盤は社会民主党と市民的諸政党にあった。しかし市民階級の一体性を維持していた理念は、しだいに説得力を失った。そして、市民的な理念を支持する伝統的勢力とこれを否定する新しい勢力に分裂し、一体性は崩壊した。新しい市民層は旧来の市民的諸政党から離反しナチ党に期待した。
市民的政党とともに凋落したのは教養市民層の思想である。大学教育を受けた官僚や教授はドイツの支配層であったが、作家、芸術家などを含め彼らを教養市民層と呼ぶなら、19世紀以来、ドイツ市民層の社会文化意識をイデオロギー的に代弁していたのは教養市民層、とりわけ教授であった。
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