野村克也がシダックスに植え付けた揺るがぬ自信 本物の野球を学びナインの表情は変わっていった
しかしプリンスホテルは2000年限りで廃部に。翌年からシダックスに移籍した。
「噂には聞いていたんですが、関東村のグラウンドは衝撃でしたよね。本当にハングリー精神の塊でやっているんだなって。室内練習場もないから、雨の日は高速道路の高架下に行って、みんなで素振りするんですよ」
シダックス移籍3年目、野村の監督就任と同じ頃に主将を務めることが決まった。
「野村さんが来ると聞いて、もちろん驚きましたけど、凄いワクワクしました。どんな野球をするんだろうと思って。29歳でしたけど、野球を教わりたいなと」
キャンプ中、いすゞ自動車の元主将で、休部に伴い移籍してきた同世代のショート・藤澤英雄とともに、松岡は野村に呼ばれた。
野村は真剣な表情で、2人に言った。
「向上心がないんだったら、今すぐ辞めろ。ベテランであぐらをかいて、気持ちよく試合に出るようだったら、いつでも辞めてくれ。若手の壁になれないんだったら、俺のチームには要らん」
野手の中心を担う2人に対して、いきなりの先制パンチを食らわせた。さらにこう続けた。
「お前たちには『生きた教材』になってほしい。2人とも今年で30歳か。もうこの先、プロはないだろう。今後は人を遺せるかが、お前らの使命や。後輩にどれだけのものを遺せるか。『こう打つんだよ』『ゴロはこう捕るんだよ』と、しっかりやってもらいたい」
松岡は今、野村の意図をこう読み解く。
「組織作りとして、まず中間管理職の立場になる僕と藤澤に監督の考え方を理解させたかったのだと思います。あの年、オープン戦も含めて80試合ぐらいやりましたけど、僕と藤澤はほぼフル出場ですよ。相手が大学生だろうが関係なしです。他のチームの選手に『また出ているんですか』と、いつも驚かれていて。体力面でも鍛え直されました」
天を見上げ、恩人に思いを馳せた。
「厳しい言葉の裏側に、いつも愛があったんです。僕も藤澤も疲れて調子の悪い時はあったけれども、『お前らは核だから外さん』と。僕はそれを『やればできる』という無言のメッセージだと受け止めていました。『関係ない。老け込むな。プロは30歳でもバリバリやっている。お前らもまだまだできる』って言いたかったんでしょう。だから、限界を決めたら負けだと思っていましたね」
松岡さんと藤澤さんが今日も試合に出て、必死に頑張っている。ならば若い俺たちはもっとやらなきゃいけない―。
チーム内に及ぼす効果はてきめんだった。
この人を日本一に
正捕手の坂田精二郎は立正大を卒業後、1997年にシダックス入社の生え抜きである。
ヤクルト時代の古田敦也がそうであったように、試合で投手が打たれると、野村は坂田をしかった。「優勝チームに名捕手あり」「捕手は監督の分身」を信条としてプロの世界で成功を収めてきた「生涯一捕手」である。扇の要を担う男には厳しかった。
「当時の自分はもう28歳でしたけど、2時間ずっと立たされたことがありますよ。僕も僕で『監督、もういいですか』と言ったら、さらに怒られたりして」
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