野村克也がシダックスに植え付けた揺るがぬ自信 本物の野球を学びナインの表情は変わっていった

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今でもたまに当時の座学をメモしたノートを読み返すことがある。

「夜のミーティング、めちゃくちゃ刺激的でしたよ。野村哲学を徹底的に叩き込まれて。27歳の自分がどれだけ無知だったのかを思い知りました」

毎日が楽しみ

新任コーチの田中善則は、アマ球界のスター選手だった。法政一高では2年時の1984年、春夏連続で甲子園に出場し、法政大では3度のベストナインに輝いた。卒業後は北海道拓殖銀行(拓銀、1992年からチーム名を「たくぎん」に改称)に進んだ。1996年にシダックスへ移籍。翌年から主将として快活な人柄でチームをまとめた。主軸として1997年の都市対抗8強、1998年の同4強、1999年の日本選手権優勝に貢献した。2002年限りで現役引退。コーチに転身すると、野村が監督としてやってきた。

田中は元々、野村の著書のファンだった。意気に感じて、選手との間に立って奔走した。練習中には意見を求められる場面も多々あった。

「このバッターは打つのか?」

「ハイ。ウチの中では勝負強い打者です」

「うーん。一点だけ気になるところがあるんだよなあ」

田中は振り返る。

「『固定観念は悪、先入観は罪』とミーティングでもおっしゃっていましたが、野村監督は決めつけないんです。まずフラットな状態で、自分の目でしっかりと観察する。その上で判断する。それが野村監督が来て、選手がやる気になった理由の一つです」

素朴な疑問を投げかけられたこともある。

「田中、何で社会人の選手は、30代になると下り坂になって引退するんや? プロならまだまだ稼ぎ時じゃないか」

45歳までプロで現役を続けた男ならではの問いだった。

「プロに行けなかった選手は、家庭もありますし、同世代が仕事を覚えて出世しているのを見ながら野球をやっているんです。辞めた途端にイチから仕事を覚えるとなると、葛藤もあります。ならば少しでも早く社業に就くという考え方も、あるにはあるんです」

野村はうなずきながら、こう返した。

「好きな野球をやっているんだから、簡単に捨てて欲しくないよな。俺ならしがみついて、1年でも長くって思うんだけどな」

言葉の端々から、ユニホームへの強い執着心が感じられた。

夜のミーティングには1人の門下生として参加した。野村の一字一句を書き記し、ノートに清書したうえで、今も大切にしている。

「こんな機会ないぞって、前のめりでしたよ。とにかく一生懸命に聞こうと思っていました。毎回、新鮮でしたよね。もっともっと知りたいって、毎日楽しみでしたから。このノートはその後の人生で、心の支えになってくれました。この考え方を軸に生きていこうと思ったんです」

若手の壁になれ

「組織はリーダーの力量以上には伸びない」

強いチームを作るためには、誰よりもトップが成長や進歩をしなくてはならないという野村の言葉である。

それゆえキャプテンには特に厳しく接した。

当時の主将・松岡淳はアマ球界のエリート街道を歩んできた。PL学園を経て、青山学院大では2学年上の小久保裕紀、1学年下の井口資仁らとともに1993年の大学日本一に貢献。社会人の名門・プリンスホテルに入社後は3年目に25歳の若さで主将を任されるなど、強打の三塁手として順風満帆の野球人生を送ってきた。

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