ノムさん、僕は貴方のシダックス時代こそ伝えたい 悪夢の辞任から、指揮官として「再生」した過去

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翌日のスポーツ紙、一般紙は全てコンビニで買った。特にスポーツ各紙は異例の大展開で野村の功績を伝えていた。南海の現役時代を知る古参記者や、指揮官として全盛期となるヤクルト時代の担当記者が描く秘蔵エピソードは、どの社の記事もやはり興味深かった。野村が日頃、「暗黒時代だよ。思い出したくない」と振り返っていた阪神監督時代の逸話は、それはそれで惹かれるものがあり、「国民的ボヤキスター」として記憶に新しい楽天時代の記事も大きなスペースを占めていた。

各紙を読み比べていくと、私は徐々に悔しさを募らせていることに気づいた。

シダックス監督時代の扱い、各紙あまりに小さすぎやしないか。

「野村再生工場」という言葉がある。

ピークを過ぎ、他球団をお払い箱になった選手たちが野村からの助言や、その思考に触れることをきっかけに復活する例が相次いだことから、球界の通称となった。

野村自身が指揮官として「再生」した過去

そんな野村自身も指揮官として「再生」した過去があった。

2001年、阪神の監督として3年連続最下位の屈辱にまみれ、夫人の脱税事件もあってプロの世界からはじき出された。「もうノムさんは終わりだ」「トシだし、二度とプロの監督はできないだろう」と誰もが思った。

どん底の挫折から、這い上がるきっかけを与えたのは、親友であり、当時シダックスの会長を務めていた志太勤だった。日本一3度の名将がかつての栄光に別れを告げ、上下真っ赤な社会人野球のユニホームに身を包み、新たな挑戦を始めた。

専用グラウンドも室内練習場もない。練習場は主に少年野球チームが使用する調布市の市営グラウンドだった。風よけも雨よけもなく、強風が吹くと砂埃で顔面が真っ黒になった。恵まれない環境だったが、野村は野球に没頭した。2004年に起きた球界再編騒動ではご意見番としての存在感を高め、2006年からは新興球団・楽天の監督に就任。華やかなプロの世界へと舞い戻っていった。

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