ノムさん、僕は貴方のシダックス時代こそ伝えたい 悪夢の辞任から、指揮官として「再生」した過去
「幸せだよ。人を遺すのが仕事だからな。俺の教えを引き継いでくれているのは、うれしいね。『見つける、育てる、生かす』が指導者の使命なんだけど、育てるのは本当に難しいよ。自分の欲が先行してしまうんだ。欲は捨てないと。チームのために、選手のために、とね……」
私は野村の前にしゃがんで質問を投げかけ、談話を必死にメモした。その時、ふと、懐かしさがこみ上げた。
2003年から2005年まで「スポーツ報知」のアマチュア野球担当記者として、シダックス監督時代の3年間を追いかけた。取材に行くと、こうして最前列に陣取り、率先して問いを発した。当初は「熱心さをアピールしたい」との打算からだった。
いつの間にか打算は消えていた
メモした野村の談話は、時には毒を含み、時には人情味にあふれ、社内のデスクに報告するとウケが良かった。新聞の紙面は有限で、各担当記者による争奪戦になるのだが、野村の記事は会社に求められ、読者からの反響も大きかった。いつの間にか打算は消えていた。グラウンドに赴くたび、私は野村の野球に対する情熱やチームへの愛情を感じ、野村が好きになっていった。野村シダックスの原稿を1行でも多く紙面に載せることが自らの使命だと思い込むようになった。
野村の健康面を 慮(おもんぱか)ったのだろう。シダックス監督時代のマネジャーで、OB会の幹事を務める梅沢直充が「それでは、もうそろそろ……」と囲み取材を打ち切った。梅沢は、野村が乗る車椅子を慎重にエレベーターの中へと運んでいった。我々は「ありがとうございました」と一礼し、その姿を見送った。エレベーターが閉まり、フロアを示すオレンジ色のランプの数字が減っていくと、記者仲間同士でこんな会話をした。
カントク、話をしているうちに、だんだん元気になってきちゃったね―。
結果的にこの日が、野村にとって最後の「公の場」となった。
OB会から17日後の2020年2月11日。祝日の朝だった。同僚記者からのLINEにスマホを持つ手が震えた。
ノムさんが亡くなった―。
この前の別れ際、あんなに饒舌だったじゃないか。それなのに、どうして?
だが、訃報に接した担当記者に落ち込む自由は許されていない。
自宅の本棚からスクラップや資料を取り出してリュックサックに詰め込み、会社に向かった。時折こみ上げる感情を「俺は記者なんだから、書くことで弔うしかない」と抑え込んだ。1面のトップ記事から番記者追悼コラム、語録、球界の反応など、夜中までひたすら原稿を書き続けた。
25時、全ての業務を終えると、トイレの個室に駆け込んだ。涙があふれて止まらなかった。
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