佐久間宣行「過激な表現やめたくない」と語る理由 テレビよ永遠にという気持ちは「ない」とあっさり

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「ラジオを始めて1年でコロナ禍になった。ラジオがあって、リスナーとくだらない話で盛り上がれる1時間半があるというのは、本当に心の支え。ラジオを持っていると、日ごろの失敗が失敗じゃなくなる。全部ラジオの話のネタになるからまあいいかと思える。人生がめちゃくちゃ気楽になって、僕の新しいキャリアを開いてくれました」

企画書書きまくる日々

「作り手」の側で売れっ子になったが、この人の原点として常にあるのは、面白いものを見たいという「受け手」側のスピリッツだ。子どものころから、マンガ、本、テレビ、映画などあらゆる創作物鑑賞のマニアである。

「フジテレビの『夢で逢えたら』(88~91年)とか、伊集院光さんの深夜ラジオとか。こんなに面白いものがこの世にあるのかと夢中になりました」

自分がテレビの仕事をするとは夢にも思わなかったという。

「そういうのは、学生時代に映像撮ったり劇団に入っていたりする人がやるものだと思っていたので。『カノッサの屈辱』とか『カルトQ』とか、すごい深夜番組を次々と生み出した90年代のフジテレビ黄金時代なんか、すげぇな、天才の集まりだなって。あれを見て『俺もなろう』とは思えなかったんですよ」

オールジャンルで就職活動をする中、あこがれのフジテレビを記念受験し、人生が変わった。事業部の面接で学生時代に見まくったエンタメの面白さを語ったところ、面接官から「『面白い』とは何かをそれだけ説明できるなら、制作部門で受けた方がいい」と勧められた。その面接官が「踊る大捜査線」など数々のヒットドラマを手掛けた亀山千広氏(現BSフジ社長)だったというのもドラマチックだ。希代のヒットメーカーに背中を押され、そこから就活に間に合ったテレ東に採用された。

しかし、「入ってすぐ絶望した」という。

「夜遊びがかっこいい、みたいなマッチョな時代。先輩に飲みに連れ回されるのが性格的に合わなくて、嫌で仕方なかった」

第二新卒扱いになる入社3年目までに辞めようと覚悟を決めた。

「どうせ辞めるなら、パワハラな誘いは全部断ろうと。そしたらきれいに嫌われて呼ばれなくなって(笑い)、その時間に企画書を書きまくる日々が楽しくなってきたんです」

次ページやたらと企画書を出したその先に
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