ニュータウンの中心「多摩センター」と街の半世紀 入居開始時は「陸の孤島」、今は3路線が乗り入れ
計画段階でも迷走したが、入居を開始した後も多くの混乱が待ち受けていた。約3000ヘクタールにもおよぶ多摩ニュータウンは、約30万人が生活する場として考えられていた。過去に例がない巨大開発は注目を集める一方で、周囲からは“巨大な実験都市”と形容された。
希望を抱いて新天地へと引っ越してきた新住民にとって、実験都市とは散々な言われようだが、それも決して的外れな言葉ではなかった。実際、多摩ニュータウンは諏訪・永山地区から入居が始まったが、その当初、鉄道は開通していなかった。
後に多摩ニュータウン住民の足となる京王相模原線は、1971年の時点で京王よみうりランド駅までしか開業していなかった。住民の多くは京王線の聖蹟桜ヶ丘駅、または小田急線の鶴川駅までバスに乗り、そこから電車に乗り換えて都心へ向かう通勤ルートをとった。
駅までバスに乗るにしても、ニュータウン内の道路が十分に整備されているとは言い難い状態だった。そのため、朝のラッシュ時は慢性的に渋滞が発生。特に駅前の渋滞は激しく、多くのサラリーマンは聖蹟桜ヶ丘駅まで乗車せずに、かなり手前のバス停で下車して駅まで歩くことが常態化していた。
急増する住民に整備が追い付かず
鉄道・バスといった交通網が未整備というだけなら、通勤するお父さんが我慢すれば済んだかもしれない。だが、ニュータウンにおけるインフラの未整備は、鉄道・バス(道路)にとどまらない。ほかの生活インフラも脆弱だった。諏訪・永山地区の入居開始時点で、宅地造成が完了していない区画も多く残っていたほか、造成が完了していても入居が始まっていない地区もあった。それにもかかわらず、ニュータウンの人口は1年で約4万人も増加。生活に欠かせない小中学校や病院といったインフラの整備が追いついかなかった。
ニュータウン住民のボリュームゾーンは20~30代の夫婦だから、学校・病院が不足することは生活に大きな影響を及ぼす。これには、新住民も「話が違う」と行政を追及した。
多摩ニュータウン開発に狂いが生じた理由は、住宅開発における事業者間の思惑のズレが最大の理由だろう。多摩ニュータウンの住宅建設・分譲は主に政府・東京都・住宅公団などが担ったが、当初は京王や小田急といった鉄道事業者も住宅事業を予定していた。行政は住宅政策で歩調を合わるべく住宅開発の事業者を絞った。その影響で、京王、小田急は多摩ニュータウン域内での不動産事業から排除される。
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