ニュータウンの中心「多摩センター」と街の半世紀 入居開始時は「陸の孤島」、今は3路線が乗り入れ

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多摩センター駅の南口広場を設計した建築家の大髙正人は、多摩ニュータウンの萌芽ともいえる南多摩総合開発計画で、そのプランニングを依頼されていた。しかし、大高の描いた設計案は奇抜すぎるうえ、完成までには時間がかかるとの理由から却下。それが原因になって、大髙は南多摩総合開発計画から発展した多摩ニュータウン計画に距離を置いていた。

多摩センター駅南口のペデストリアンデッキからパルテノン大通りの風景(筆者撮影)
多摩センター駅南口のペデストリアンデッキを突き進んだ先にある多摩中央公園(筆者撮影)

再び白羽の矢が立つことになった大髙は、南口に大きな駅前広場を設けるとともに上下二層の立体的なペデストリアンデッキを設計。完全な歩車分離を図り、デッキをそのまま歩けば自然と街へと入り、中央公園へと突き当たるような構造にした。

また、大髙は街区のデザインだけではなく、省エネルギーや公害防止、生活環境にも配慮。それらの観点から地域冷暖房や都市廃棄物管路といった施設を整備し、商業施設・オフィス、官公庁が集積できるような工夫を凝らした。さらに、多摩センター駅の一帯は電線・電話線などを埋設する共同溝が整備されるなど、未来を志向したインフラも盛り込まれた。

大髙がデザインした多摩センター駅南口のペデストリアンデッキは、1980年に完成。以降、多摩センター駅前には続々と大型商業施設が集積するようになる。駅の開業や駅前広場の整備が、多摩ニュータウン全体を活性化させたことは言うまでもない。

発展の一方で衰退も

他方で、これが新たな問題を発生させる引き金にもなった。多摩ニュータウンの造成前、地域には多くの農家があった。ニュータウンの建設にあたり、行政はこれらの農家から土地を買収。農地を手放した農家に対して、行政は金銭的補償だけではなく今後の生計を立てるための転業の支援もした。場所を変えて農業を続ける選択肢も残されていたが、それは実質的に不可能だった。

多くの農家はニュータウン内に用意された商業店舗で、新たな商売を始めるしかなかった。その転業においても、必ず希望が聞き入れられたわけではない。多くの人々が転業するわけだから、どうしても人気の業種が出る。狭いニュータウンという生活圏で業種が重複すれば、潰し合いのような事態が起きてしまう。人気の業種を奪い合う事態は、住民たちが穏便に話し合うことで回避された。

こうして多摩ニュータウンには農家から転業した個人経営の商店が多く軒を連ねることになったが、多摩センター駅周辺に大資本による商業施設が集積したことで、共存共栄を目指した多摩ニュータウンの秩序が崩れていく。大規模商業施設は農家から転業した個人商店を駆逐していった。

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