今は見つからないけれど、いつか欲しいモノが見つかったらそのときに買えばいいので蓄えておく。クーポンなら買う、現金なら貯蓄という話でもなく、もし筆者がもらえたらクーポンで米や肉や調味料を買うだろう。そうすれば、そのぶん食費用の現金が浮くわけで、それは「いつか」のために口座で繰り越される。
欲しいものがなく、さらに収入も増えないとなれば、消費よりも節約に向かうのは致し方ない。
生活が苦しくなるほど贅沢品を買う?
ある本を読んでいて驚いたことがある。『1984年』の著者として知られる作家ジョージ・オーウェルが、1900年代前半イギリスの失業者の生活について触れた文章だ。
貧困家庭が切り詰めた生活をする際に、生活水準を切り下げて乗り切ろうとする、というところまでは異存はない。しかし、切り下げるものが意外なのだ。
“しかし、贅沢品を切り詰め、必需品に回すというやり方で生活水準を切り下げるのではなく、反対の方法を取ることが多い。ちょっと考えれば、そのほうがすっと自然なやり方だ。10年にわたる前例のない大不況期に、安価な贅沢品の消費が増大したという事実がある。”(ジョージ・オーウェル『ウィガン波止場への道』より)
安価な贅沢品とはどういうことなのか。続きを読むと、まともな食事1回分の金額を出せば安いお菓子(つまりは嗜好品か?)が買え、わずかな肉しか買えない金額でもフィッシュアンドチップスがどっさり買える(必要な栄養価より量?)とある。貧しくなるほど、真に必要なものよりも、それを紛らわせるものに人はお金を払うというのだろうか。
20世紀初頭イギリスの貧困家庭とは無論違うが、気づくと日本にも「安い贅沢」はあふれている。
サイゼリヤに出かければ1人1000円もあればワイン付きのディナーが楽しめるし、家族で海外旅行は厳しくとも千葉県舞浜にある夢の国なら非日常な体験ができる。均一価格ショップを駆使すればまあまあ見栄えのいいインテリアも整う。「ちょっといいもの」「ワンランク上の」「プチ贅沢」というキーワードもまさにそうだ。日本でも、われわれに貧しさを感じさせないため、「安い贅沢」品やサービスが生み出されていたのかもしれない。
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