東京タワーや通天閣「観光写真」開拓した男の人生 全国の観光地で写真撮影を手がける文教スタヂオ

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全国の観光地で写真撮影している文教スタヂオのスタッフ(写真:文教スタヂオ)

昨年12月8日、ある経営者が亡くなった。95歳の大往生だった。名前を一圓泰三という。一般にはあまり知られていないが「観光写真」というジャンルを確立したフロンティアだった。

泰三は1925年、滋賀県多賀町に生まれる。農家の五男坊で高等小学校を出ると東京に丁稚奉公に行ったが、戦争が迫ると予科練(海軍飛行予科練習生)に志願。十倍以上の競争率をかいくぐって合格し、飛行機乗りになる訓練を受けた。

卒業後、海軍に入った泰三は「写真班」に配属された。巡洋艦のカタパルトからフロートのついた飛行艇で射出されて飛んで、敵地の基地形状やダムなどのインフラを偵察撮影し、艦内の暗室で現像した。これが写真との出会いだった。

終戦後、サラリーマンを経て、海軍時代の経験を生かすべく1950年写真業を創業した。昭和中期まで、町の写真館は、医院や薬局と並び、特殊技術を有する「町の名士」だった。人々は写真を撮るためには写真館に出向くしかなかったが、後発の泰三は「自ら出ていく」ことを選んだ。

当時、滋賀県彦根市には近江絹綿など紡績工場が多く、女工が住み込みで働いていたが、泰三は当時珍しかったオートバイで寄宿舎に出向いて写真を撮影した。外に出ずにパッと撮れるから着物も汚れないし、何回も着替えて撮れる。女工さんには大好評だった。この経験で泰三は「待っていたらあかん。自分から出て行ったほうがいい」という確信を得た。1961年には「株式会社文教スタヂオ」を創業。

社会が落ち着いてくると観光ブームが起こったが、文教スタヂオは琵琶湖や彦根城などで観光写真を撮影、帰路につくまでに写真を仕上げて販売し団体客から好評を博した。

大阪万博で記念写真を手がける

エポックとなったのが1970年の日本万国博覧会(大阪万博)だ。「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、総入場者数は6421万8770人という巨大な博覧会。文教スタヂオは、北と西のゲートを落札した。勝負は「多くのお客をいかに早く撮影するか」そして「撮影したフィルムをいかに早く現像するか」だった。

富士フイルム系の代理店と組んで、近くに専用の現像所を作り、オートバイでピストン輸送した。これまでに考えたこともない事態に次々と直面したがそれを一つひとつ解決する中で、経験値を飛躍的に高めた。この成功から、泰三は「人の集まるところにはとにかく行こう」と考えるようになった。

以後、多くの博覧会で記念写真を手がけたほか、全国の観光地で「観光写真」を撮影するようになった。

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