権力維持の道具となった「民主主義」という言葉 アメリカも中国も勝手に定義し叫んでいる
胡錦涛国家主席時代の2009年、中国の北京大学で講演する機会があった。約200人の学生に「中国が民主主義の国と思うか」と聞いたところ、ためらいながらだったが2人の学生が手を挙げた。すると他の学生から「何を考えているのか」などというヤジが飛んだ。
手をあげなかった学生に意見を聞くと「民主主義は統治形態の1つにすぎない。中国は共産党による統治で成果を上げている」「統治のあり方に絶対的なものはない。国民がそれでいいと考え受け入れることが重要である」などと答えた。つまり学生らは中国が民主主義国ではないことを否定的にはとらえていなかったのだ。当時はそういう教育を受けていたのだろう。
胡錦涛時代にはそれなりに自由な空気があった。中国を訪れると中央政府や地方政府の幹部に会うことができ、内政外交について率直に話を聞くことができた。大学の研究者らにも会え、政府や共産党の問題点や批判を聞くこともできた。
ところが習近平政権になって空気は一変した。私に民主化の必要性を語ってくれたジャーナリストや弁護士が拘束されたという情報が何度か届いた。メールでやりとりすることもはばかられるようになってしまった。ウイグルの人権問題に焦点が当たっているが、ごく普通の言論や表現の自由さえ認められていないのが今の中国だ。
中国の白書は「民主主義」の普遍性を否定
その中国政府がいま、「自分たちこそ民主主義を大事にしてきた国だ」というキャンペーンを展開している。12月4日には『中国の民主主義』と題する白書を公表した。例によって長文でかつ意味不明の用語が列挙され、極めて読みにくく理解しにくい文書だ。
いくつかのポイントを紹介する。
まず結党100年を迎えた中国共産党は一貫して人民民主主義を掲げ積極的に推進してきたことを強調している。毛沢東による反右派闘争や文化大革命、鄧小平時代の天安門事件など、反体制派の粛清と民主化運動の弾圧を繰り返してきた中国の現代史を振り返ると、民主主義とは無縁なはずだがそうではないらしい。
そもそも彼らのいう民主主義の定義が異なるのである。白書は、「民主主義はそれぞれの国の歴史や文化、伝統に根ざすものでありさまざまな道と形態がある」として、その普遍性を否定している。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら