異文化に触れる日本人が陥りがちな3つの誤解 国は幅広すぎる、意見は言って相手を受け入れよ
しかし、数カ月後自分が異邦人であることを忘れ、初対面の人に「Where are you from?」を聞かれるときだけ急に「そうだ! 私は日本人だ!」と思い出す。同じく、外国の友人がいれば、時間が経つにつれて相手の出身地を意識しなくなる。国の理解は一般的な人間関係にあまり役に立たないのではないか。
さらにグローバル化以前から複数の思想や価値観は同じ国に共存していた。国の均質性は何でも説明できる魅力的神話にすぎない。スイスは4つの公用語(フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロマンシュ語)を認める国である。フランスにはフランス語のほか、ブルトン語をはじめさまざまな地域言語を話せる人が多い。言語が増えると、文化も増える。
今日、マジョリティーを優先している国家も存続しているが、それは均質性の証明につながらない。言い換えれば、認められなくてもすべての国には異なる文化の人が共存している。仮に、言語あるいは宗教の違いが存在しなくても、都市部と地方の差、ジェンダーや世代間のギャップが必ずある。本当の異文化コミュニケーションを目指す人々はその事実を無視できない。
「国」はカテゴリーとして幅が広すぎるが、できるだけ多くの文化を知るべきだという事実は変わらない。相手の国とその諸文化に興味を示すことが、会話のネタとなり、共通点を見つけるための有効な切り口である。さらに、多文化を理解することによって多彩な視点を身につけて、場面に見合う対応ができるグローバル人材を目指せる。
しかし、会社で働く外国人あるいは海外のお客さんの気持ちや考えを理解するためには、皆が思うほど役に立たない。それにもかかわらず、ビジネスパーソン向けの異文化コミュニケーションの本は主に国の違いを強調する。
その理由は2つある。本や講演会で紹介しやすい知識は、すぐ身につける便利な能力に感じやすい。そして、ビジネスパーソン向けの本は最先端の研究ではなく、戦後に書かれたものを参考にし、現代までほとんどアップデートされていない。たとえば、「高文脈文化」と「低文脈文化」は見直すべき文化の区別だと思う。
2.「高文脈文化」と「低文脈文化」
人類学者のエドワード・T・ホール(1914年〜2009年)は『沈黙のことば』(1959年)で「高文脈文化」と「低文脈文化」の区別を初めて明確にした。ドイツやアメリカは「低文脈文化」、日本や中国は「高文脈文化」として扱われている。具体的に、ドイツのような文化は意見や気持ちを言語化しないと、相手に無視される。
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