ミレニアル・Z世代が支持、「大きな政府」の米国史 東京大学・中野教授に聞くアメリカ史(前編)
ローズヴェルトはこれに対抗して、新たにワーグナー労働法(労働組合の法的地位)を成立させ改革をより先鋭化させますが、司法に妨害される懸念はぬぐえません。そこで彼は、保守的な判事の力を削ごう、あるいは排除しようと、最高裁の定員倍増や定年制導入を示唆します。しかし、この裁判所改組の動きは議会内外から猛反発を招き、ローズヴェルトにとって大きな政治的挫折になります。1937〜1938年にはちょうど2回目の株価暴落と景気悪化もありましたから、この時期のローズヴェルト政権は一時的にレームダック化してしまいました。
これは余談になりますが、「当時のアメリカは全体主義に近かった」と主張する研究者も一部にいます。たとえば、「青鷲運動」という官製キャンペーンでは、連邦政府は全国産業復興法の規約に賛同する企業やお店に、愛国者の証として国章のワシ印のバナーやバッジを付けさせ、それ以外の事業者と差異化をはかるようなことまでやりました。そうした強権的な傾向があったローズヴェルト政権ですが、先の最高裁との紛争などが示すように、アメリカの社会制度の中では、結局のところ、独裁的な政治はできませんでした。これは歴史的な事実として覚えておくべきでしょう。
ケインズ主義的な財政政策重視へシフト
――そのような挫折を経て、ローズヴェルトの2期目以降のニューディールはどちらへ向かったのでしょうか。
ニューディールの後半は、第2次世界大戦期の政治経済に流れ込んでいきます。戦時の総動員体制の中で、大量失業は10年ぶりに終息し、完全雇用が望めるほどに経済は回復しました。その過程で、ニューディールは公共事業などケインズ主義的な財政政策へ重心を移していきます。それ以前は、ローズヴェルト政権も一枚岩ではなく、社会公正や労働者保護、企業規制を重視する社会民主主義的なグループも一定の力を持っていましたが、ローズヴェルトは幅広い支持を得やすい経済成長路線に傾斜していくのです。
この点は、その後のアメリカの左派の系譜を考えるうえでも重要なことです。ローズヴェルト民主党が全米を制覇したのは、複雑な利害を有する多様な政治勢力の大同団結の産物でした。この大同団結は「ニューディール連合」と呼ばれますが、それは都市部の白人層や左派知識人、労働組合、北部黒人労働者に加えて、中西部の農民や人種隔離政策を続ける南部民主党からも構成されていました。
ニューディールの公共事業では、「テネシー渓谷開発公社」が教科書に載るほど有名ですが、これは南部7州の渓谷一帯に水力発電所を建設し、そこで生み出される電力によって、恐慌で荒廃した農村地帯を電化し、また窒素系肥料を生産して農業の近代化を図るというものです。そもそも、この地域は大恐慌で疲弊した国内最大の貧困地帯であり、経済的てこ入れが急務でした。こうした大規模な公的投資は、南部のローズヴェルト支持を確保し、また、戦後のサンベルトの発展の基礎をなすものとなります。
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