7月1~7日、歴史に埋もれた政治めぐる「名言7選」 一日一考、日本の政治について考える
和辻哲郎(わつじ・てつろう/1889‐1960/哲学者、倫理学者)
共産党の示威運動の日に一つの窓から赤旗がつるされ、国粋党の示威運動の日に隣の窓から帝国旗がつるされるというような明白な態度決定の表示、あるいは示威運動に際して常に喜んで一兵卒として参与することを公共人としての義務とするごとき覚悟、それらはデモクラシーに欠くべからざるものである。しかるに日本では、民衆の間にかかる関心が存しない。
<『風土』(岩波文庫、2010年)>
1927(昭和2)年2月から28年7月にかけてドイツに留学した和辻哲郎は、日本との違いを実感させられた。「家」の外にあるものは「他人のもの」として取り扱われ、公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達した日本に対して、都市が城壁に囲まれたドイツでは公共的なるものへの関心が高かった。当時はまだ共産党もナチスも少数政党だったが、自らの主張を堂々と掲げている。和辻の目には、これこそがデモクラシーにほかならないと映った。
マクマホン・ボール(1901‐1986/オーストラリアの外交官、連合国対日理事会英連邦代表)
何という独立記念日であったことか! 九時半に皇居前広場へ行き、壮大なパレードを見たが、東京最大のものだった。(中略)マッカーサーは何十枚も自分の写真を撮らせたに違いない。彼は芝居じみた最高に晴れやかな顔をしていた。<アラン・リックス編『日本占領の日々』(竹前栄治、菊池努訳、岩波書店、1992年)>
1947(昭和22)年7月4日の米独立記念日、約1万5千人の米軍および英連邦軍が宮城(現・皇居)前広場を出発点とし、大手町、日比谷一帯をパレードした。マッカーサーは、広場の観閲台に立って閲兵した。この最高司令官は地方を全く訪れなかったが、首都東京では米国の祝日にかつての天皇の親閲式と似たような儀礼を同じ広場で行うことで、占領の実態をまざまざと日本人に見せつけた。東京を舞台とするこうしたパレードは、占領期を通して続くことになる。
松本清張が下山事件について述べた言葉
松本清張(まつもと・せいちょう/1909‐1992/作家)
…この衝撃的な事件の主人公に下山がわざわざ選ばれたのは、国鉄総裁としての彼が、あくまでも独自の立場で、GHQまたはシャグノン案に抵抗したからであろう。
「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』上、文春文庫、2004年所収)
1949(昭和24)年7月5日、初代国鉄総裁の下山定則が行方不明となり、6日に常磐線の北千住─綾瀬間で遺体となって発見された。松本清張はこの遺体が進駐軍用列車で現場に運ばれたと推理し、GHQないしその運輸担当中佐のシャグノンが進めようとした大幅な人員整理に下山が抵抗し、独自案を作成しようとしたために殺されたと解釈した。占領期に起こった事件をGHQの謀略だとする史観は後に批判され、下山事件についても異説が出されているが、事件の謎自体が解明されたわけではない。
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