最後の大桶職人が抱く「木桶文化」存続の焦燥 "本物のしょうゆ"は消えてしまうのか
堺が桶や樽製造のメッカとなったのは、背後に紀州・吉野の山を擁し、良質な吉野杉の調達が容易だったことが大きい。さらに刃物の名産地であること、灘・伏見の二大醸造現場への供給に有利な立場にあることなどが有利に働いた。
堺には優秀な桶職人が数多くいた。大正時代、上芝氏の祖父が桶屋を始めた当時には、堺の桶樽協同組合だけで47軒もの桶屋が名を連ねており、藤井製桶所は大桶を造る桶屋の中では新参者だった。
需要が減れば発注も減る。同業はどんどん引退していった。その結果、思いもよらぬ苦労が待ち受けていた。
材料調達のタガは締まるか
主原料である吉野杉の供給が滞ることはないが、桶を締めるタガの材料である竹の入手がまず困難になってきた。大桶を締めるには20メートルくらいの、通常より長くてまっすぐな竹が必要となる。
竹は無造作に生えているように見えて、実は細やかに手入れをしていかないと長くまっすぐは育たない。竹細工などの需要があるため、竹林を世話する人がいるにはいるが、普段はそんな長い竹の需要がないので、太さはあっても長さの足りない竹しか育成しない。
そこで原料の確保に、自ら動くことになる。いま造っている桶用の竹も、1年以上も前から上芝氏自身が京都中を探しまわって、段取りをつけてきたものだ。
最近は慣れたが、最初に戸惑ったのは「18年くらい前に最後の(タガ造り)職人がいなくなった」こと。昔は竹を育てる職人、その竹からタガを削り出す職人など、分業がはっきりしていた。それが今では何から何まで、桶職人がやらなければならなくなっている。
困難はそれだけではない。桶を造るには、それ専用の特殊な道具がなければ、にっちもさっちも行かない。たとえば、側板を並べたときにきちんと円形になるような勾配を計るカマ(定規)、側板の外と内に曲面を造る銑(せん)という刃物、湾曲を造り出す丸カンナなど、用途に応じた、さまざまな特殊な道具がある。だが、それらの道具を造る職人たちも、大桶の受注が減ったことで次々と引退していった。
今、上芝氏は桶や樽の職人が引退すると聞くと、日本全国どこへでも飛んでいく。使っていた道具を譲ってもらうためだ。ただ、引退はしても、自分で丹精込めて手入れしていた道具は手放したくないという人も多い。そこを熱心に頼み込む。
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