日本の政治史に名を刻む東海道線の小駅「興津」 鉄道の開通が小さな漁村を「政治の地」にした

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西園寺は興津住民と交流を持つことを嫌がらなかったが、喧騒を逃れることを目的に別邸を構えた経緯もあって、興津を振興させようという考えはなかった。

他方、長者荘を構えた井上は地域住民とも深く関わりを持った。井上は地元住民の興津を活性化させたいという気持ちを汲み、興津駅に急行列車を停車させるなどの強権的な措置を取っている。また、自邸の庭を開放して催事をすることも頻繁にあり、その際には料理を振る舞ったり、近所の少年たちと相撲を取ったりした。相撲で汗をかいた後は、少年たちに菓子を与えたりもしている。

井上は料理を趣味のひとつにし、自ら厨房に立つことも珍しくなかった。会席料理だけではなく、和菓子の研究にも熱心だった。地域住民に振る舞われた料理や菓子は、井上が自作した可能性もある。癇癪持ちだったこともあり、明治新政府の重鎮ながら官僚たちから忌避されることも多かった井上だが、興津住民からは愛されていたことを窺わせる。

静かな漁村へ、そして静岡都市圏へ

1934年に丹那トンネルが開通すると、東海道本線の所要時間が一気に短縮し、東京と興津の感覚的な距離は縮まった。しかし、西園寺没後の興津に別邸を構える政治家は現れず、興津から政治のイメージは急速に薄らいでいった。

埋め立てによって誕生した清水清見潟公園内には井上馨の像が新たに建立された(筆者撮影)

以降、興津は静かな漁村としての道を歩んだ。だが、高度経済成長期に清水港の拡張問題が持ち上がる。興津町民が一丸となって埋め立てに反対したものの、1960年には拡張整備工事が開始。翌年には袖師町や興津町が清水市に編入され、埋め立ては既定路線になった。埋め立てによって海水浴場は消失し、その代替として公園が整備された。坐漁荘も海沿いとは言いがたい立地になった。

1964年に東海道新幹線が開業したことも興津を大きく変えた。東海道本線を走る特急列車は大幅に削減され、東海道本線は東京―名古屋―大阪を結ぶ大動脈ながらもローカル線然とした雰囲気が漂うようになった。東海道新幹線を補完する役目を担っていた「東海」は急行、特急と列車種別を変更しながら生き残っていたものの2007年のダイヤ改正で廃止された。

一方、1984年のダイヤ改正では、静岡駅を軸に興津駅―島田駅間を走る「するがシャトル」が登場。10分間隔で運行される「するがシャトル」は、静岡への通勤・通学需要を満たすことになり、しだいに興津は静岡都市圏へと組み込まれていった。昭和の大合併で興津を編入した清水市は、平成の市町村合併によって2003年に静岡市と合併。興津は名実ともに静岡市になっている。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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