日本の政治史に名を刻む東海道線の小駅「興津」 鉄道の開通が小さな漁村を「政治の地」にした

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政治家や官僚たちは政策課題を相談するべく、東海道本線の汽車に乗って長者荘を頻繁に訪問するようになる。そのため、井上の存命中は興津駅に急行列車が停車するダイヤが組まれることもあった。また、長者荘は東海道本線の線路沿いに立地していることもあり、行啓や園遊会といった際には臨時停車場も設けられた。井上は長者荘で没したが、葬儀の際も弔問客の便を図るべく長者荘の敷地に臨時停車場が設置されている。

そして、東海道本線が全通した1889年は、興津にとっても節目の年になった。周辺の町村と合併し、新たに興津町が誕生。その10年後の1899年には清水港が開港する。この開港は、興津の産業にも大きな影響を与える出来事だった。

興津の周辺は言うまでもなくお茶の産地で、明治期は政府が外貨獲得政策としてお茶生産を奨励。静岡で生産されていたお茶は、それまで横浜港まで運ばれた後に輸出されていた。横浜港まで運搬する手間や中間マージンを取られるといった不利から、静岡の製茶業者は清水港からの直輸出を希望していた。清水港の開港は長年にわたる静岡の悲願であり、それが達成されたことで興津も経済的な恩恵を受けることになった。

渋沢栄一も立ち寄った?

今年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、短い期間ながら明治新政府に出仕して汗を流した。渋沢の直属の上司が井上で、官職を辞した後も渋沢と井上の仲はつづく。渋沢の旧主である徳川慶喜は、明治新政府発足後に静岡で生活を送っていた。渋沢は慶喜に会うため列車で静岡へ行くこともあった。その際、興津駅で途中下車することも珍しくなかった。渋沢は長者荘に立ち寄り、井上と旧交を温めつつ政治や経済について意見交換をしていたと思われる。

長者荘の跡地は静岡市埋蔵文化財センターとなり、その一画に井上馨記念庭園が整備されている(筆者撮影)

長者荘は1945年の清水空襲で全焼した。そのため、当時を伝えるものは残っていない。現在、跡地は静岡市埋蔵文化財センターと井上馨記念庭園になっている。敷地内にあった井上馨像は戦時の金属供出で失われたが、1978年に近くの公園内につくり直されている。

井上につづいて、興津に別邸を構えたのは元福山藩主の阿部正桓だった。福山藩阿部家は、江戸に広大な屋敷地を有しており、明治維新後はそれらの屋敷地を活用して不動産経営を展開するなど旧大名家のなかでは不動産経営に長けた一族だった。

その後も川崎造船(現・川崎重工業)によって川崎財閥を立ち上げた川崎正蔵、森村組(現・森村商事)に勤めた後に日本碍子や大倉陶園などを立ち上げた大倉和親などの実業家たちが相次いで興津に別邸を構えていく。

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