日本の政治史に名を刻む東海道線の小駅「興津」 鉄道の開通が小さな漁村を「政治の地」にした

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明治から昭和戦前期までは政治の地として多くの政治家・役人が利用した興津駅(筆者撮影)
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「最後の元老」西園寺公望は晩年、静岡県の興津に別邸を構えた。坐漁荘(ざぎょそう)と命名された西園寺別邸は1920年に竣工。以降、西園寺が没する1940年までの20年間にわたり、坐漁荘が所在する興津は政治的に重要な地とされた。昨年2020年は坐漁荘が竣工して100年、西園寺没後80年という節目でもあった。

興津は明治以降に大物政治家たちが次々と別邸を構えた。江戸時代まで静かな宿場町・漁村でしかなかった興津を別荘地へと変貌させたのが、ほかならぬ東海道本線という鉄道の開通だった。

鉄道が広めた「政治家の別邸」ブーム

日本初の鉄道は、1872年に新橋(後の汐留)駅―横浜(現・桜木町)駅間で開通した。その後、1887年に国府津駅まで延伸。1889年には国府津駅―静岡駅間が開通する。国府津駅から静岡駅まで、線路建設には苦難を要した。

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興津付近は旧来難所とされ、山と海とが迫るため、線路は狭い平地に敷設するしかない。そこに線路を敷設すれば、古刹である清見寺の境内を分断することになる。寺に理解を得られるとは考えにくかったが、鉄道は地域の発展に寄与するという考えから、当の清見寺が用地を献納。そのため、現在も東海道本線の列車が山門と境内の間を疾走していく。

静岡駅まで線路が通じたのと同時に興津駅も開設された。清見寺が土地を献納したことによる見返りといえるが、駅の開設により新政府では離宮や御用邸を興津に造営することも検討された。結局のところ離宮や御用邸は実現しなかったが、地元住民は「東海鉄道の賜」といって喜んだという。

鉄道が東京側から少しずつ西進していく過程で、明治新政府の首脳たちの間には、東京から離れた地に別邸を構えるスタイルが広まっていた。東京の喧騒から離れた地で、じっくりと政治的課題に取り組む。政治家たちは別邸にそうした機能を求めたが、だからと言って離れすぎているとアクセス面で都合が悪い。そうした事情から、当初は東京・品川、そして鉄道が延伸していくにしたがって神奈川県の大磯などが人気を高めていく。

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