日本の政治史に名を刻む東海道線の小駅「興津」 鉄道の開通が小さな漁村を「政治の地」にした

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興津に着目したのは実業家だけではない。伊藤博文没後に公爵家を継いだ博邦は、血縁的に井上の甥にあたる。そうした関係もあってか、博邦も興津駅の裏側に独楽荘という別邸を構えた。

博邦は公爵の襲爵と同時に貴族院議員へと自動的に就任することになるが、五爵のなかでは最高ランクの公爵という立場にありながら、政界で目立った活躍はなかった。それでも独楽荘の一画には侯爵の木戸幸一が間借りのような形で別邸を構えるなど、政界では一目置かれていたようだ。

また、別邸を構えてはいないが、日本銀行の創設で知られる松方正義も晩年は興津で生活を送った。松方の息子・幸次郎は川崎に乞われて川崎財閥を継ぐことになるが、興津の別邸は甥の芳太郎が受け継ぐ。しかし、川崎財閥と松方家の深い関係もあり、川崎別邸を間借りするように使用していた。

興津を「政治の地」にした西園寺公望

興津が政治の「奥の院」と化していく過程で井上の影響力は見過ごせないが、後世の学者から興津が政治の地と目されるようになったのは、西園寺公望によるところが大きい。

明治末期から伊藤の右腕として頭角を現した西園寺は、大正期には2度の首相就任という桂園時代を築く。松方が没してからは最後の元老として政界に隠然たる影響力を及ぼし、昭和の激動期にも存在感を発揮した。

西園寺は一時的ながら興津に滞在することがあり、その際は老舗旅館を利用していた。温暖な気候を気に入り、1919年に老舗旅館の一角を買い取って改築。翌年に坐漁荘が竣工している。

西園寺が別邸として使用した坐漁荘は老朽化のため、1968年に愛知県犬山市の明治村へと移築された。現在の建物は復元されたもの(筆者撮影)

最後の元老である西園寺は組閣のための首相推奏の任を一人で負っていた。そのため、政局の雲行きが怪しくなると、興津駅前の旅館や食堂に多くの新聞記者が詰めかけ、にわかに活況を呈した。実際、1924年に首相に就任した加藤高明は、組閣にあたって坐漁荘を訪れている。

西園寺は政府の最重要人物でもあるため、1932年と1936年に陸軍将校たちが起こした五・一五事件や二・二六事件で命を狙われる。以後、坐漁荘の警備体制は強化されることになり、警護詰所が設置されたほか坐漁荘の窓は鉄棒を仕込んだ窓格子に取り替えられた。

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