新聞社を退社した私がたどり着いた「貧乏長屋」 広い家では磨かれない「コミュ力・知恵・工夫」

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アントワネットさまは程なくして断頭台のツユと消えるというまさにドラマティックな最期を迎えたわけで、もちろんそれはそれで悲劇に違いないが、よく考えればバスティーユで延々と暮らし老いて死ぬ方が絶望度は圧倒的に高いと思われる。

何しろ希望がなく、終わりもない。華やかな楽しみなど何もなく、望むこともできず、ただ寒く暗い牢獄で死ぬまで生き永らえるとなれば、その生きている時間のすべてが拷問であろう。

ドラマティックでも何でもない、静かなる苦しみの時間。50歳で会社を辞めた私は、死ぬまでそんな時を過ごすことになるのだろうか?

お金やキラキラに変わる何か

……なーんて言ってる場合じゃないよ。

そんなことになるわけには絶対にいかないのである。

だって前にも書いたが、私が一大決心をして会社を辞めたのは幸せになるためだ。元気溌剌、自由に豊かに生きるためだ。給料がもらえなくなったくらいでくじけている場合ではない。

家賃節約のため老朽極小住宅に住むことになったからと言ってそれがどーした。大切にしてきた洋服や化粧品や食器や台所用品をことごとく手放さなきゃならなくなったくらいでいちいち落ち込んでいる場合じゃない……と自分に言い聞かせるも、どうもね……何度言い聞かせても、心は沈んだまま。

何しろどう言い聞かせようが、そんな状態で溌剌と生きている自分がどうにもイメージできやしねえ。そう、私の幸せのイメージは結局のところ、買いたいものを我慢せず買う暮らしの一択なのであった。それが封じられた今、私の手元には何のポジティブなイメージも残っていないのである。

となれば、今の私に必要なのは新しいイメージに違いない。幸せを「再定義」せねばならぬ。お金やキラキラに代わる何かを見つけるのだ。そうだよ。自分が心から納得できるイメージさえあれば! 

はたから見ていてまがうことなき「転落」であったとしても、本人の心さえしっかりしていれば大丈夫なのだ。「え、転落? いやー確かにそう見えるよね。でも実はね、これがやってみたらさあ……フフフ」と、心から不敵な笑みを浮かべることができれば、きっと大丈夫に違いない。

そう例えば、「美しい四畳半暮らし」を目指すというのはどうだろう? 不本意に下っていくわけじゃない。ちゃんと目的があって下りていくのである。バスティーユが好きでわざわざそういう生活を志すのである。

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