プロ野球チームの「社員」が経験した経営の激変 ライオンズ選手から「転職」の髙木大成がつづる
福岡を本拠地にしていたライオンズ(西鉄→太平洋クラブ→クラウンライター)は、所沢に移転して西武ライオンズとなった1979年シーズン以来、人気、実力ともパ・リーグをリードする球団になっていきました。
広岡達朗監督時代の1982~1985年の4年間はリーグ優勝3回、日本一2回。森祇晶監督時代の1986~1994年は9年間で5連覇を含むリーグ優勝8回、日本一6回の黄金期でした。1995~2001年の東尾修監督時代の7年間も優勝2回(日本一はなし)、優勝を逃した年もすべてAクラスで、ほとんどのシーズンで優勝争いに絡んでいました。
しかし、それほどまでに強くても入場者数は1991年の198万1000人をピークに、1996年には最少の129万5000人(ピーク時の約65%)まで落ち込みました。
松坂投手らの活躍で少し盛り返していた2004年でも164万9000人(ピーク時の約83%)にとどまっていました。強くてもスター選手がいても、お客さんが集まらないという時期があったのです。
チームの強さやスター選手に依存しない
また、たとえ強ければお客さまが入るのだとしても、野球というスポーツは、どんなに強くても勝率は6割までいきません。勝っても負けてもチケット代は同じ。それなら、チームの強弱や試合内容のほかに価値を感じてもらえる「何か」を乗せていけばいい。それがファンサービスの原点です。
チームが強いこと、スターが存在すること。たしかにそれは観客動員に大きく影響します。でも、それだけに依存しないで「顧客満足度」を上げることが重要ということです。
現在は多くの球団で掲げている、「地域密着」という考え方も、広い意味でのファンサービスです。
ライオンズも、より地域との密着性を高め、それを表現するために、2008年からチーム名に「埼玉」をつけ、埼玉西武ライオンズになりました。当時は、「所沢」なのか「埼玉」なのか、どこに向かって「密着」するのかが議論になりました。
最終的には埼玉県全域と西武線沿線にしっかり根ざすことでまとまりました。大宮で試合を行うようになったのもこの時からです。まさにその2008年、新たに就任した渡辺久信監督が率いてチームは優勝、勢いに乗って日本一に輝きました。
入場者数も前年の約109万3000人から約141万3000人へと約3割もアップしました。そして、事業で得た利益をどんどんファンに還元していこうという現在のスタイルに拍車がかかったのでした。
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