病院を襲った津波、遺された者たちの深い葛藤 静岡のJCHO病院はなぜ浸水地域に移転するのか
妻の裕子さんが、遺体安置所に運ばれた鈴木副院長の亡骸を探し出したのは、1週間後だった。その翌日、福島の大学院から戻ってきていた裕美さんが、安置所にいた父と対面した。白衣の下に着ているグレーのポロシャツは、2カ月半前のクリスマスに裕美さんがプレゼントしたものだった。その場で得意そうに着替えてみせた父のうれしそうな笑顔が、昨日のことのように浮かぶ。もっと暖かいシャツをプレゼントすればよかった。そう後悔した。
「ごめんね、お父さん、寒かっただろうね」
所持品を入れた袋からは、「PORTER」の黒い財布が出てきた。以前、裕美さんが使っていたものだ。大学生になって買い替えたのだが、知らないうちに古い財布を父が使っていたのだ。
その財布から、ボロボロになった写真が出てきた。幼い頃の兄の良壽さん(35)と自分が写っている、七五三のスナップだ。そして、最後に古い紙切れが何枚か。兄妹が幼稚園のころにつくって父に手渡した「かたたたきけん」だった。
私たち兄妹に、父は精一杯の愛情を注いでくれた。自分はなにをしてあげただろう。もっと親孝行をしておけばよかった。つい「ごめんね」が口をついて出る。
防災意識が強い人にとっても「想定外」だった
震災の前日、たまたま自宅に帰ってきていた裕美さんは、父と津波について会話を交わしている。その前日に、震度5を記録する地震があったばかりだったからだ。津波を心配する裕美さんに父はこう言ってなだめた。
「病院は3階建てだから大丈夫。どんな高い波でも2階までだから。最悪の場合は屋上に上がって、そこから津波をながめてやるさ」
雄勝病院は、3階の天井までの高さが地上10メートルだ。2階の天井までなら、7メートル弱ある。2004年に公表された宮城県地震被害想定では、宮城県沖地震などを想定した雄勝の津波最高水位は2.4~5.9メートルだ。3階にいれば人的被害は最小限で済むはずだ。防災意識の強かった父は、この想定を知っていたのかもしれない。屋上を越える津波は、やはり「想定外」だったのだ。
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