三陸鉄道はなぜ「復興のシンボル」になったのか 記者が振り返る震災から完全復活までの10年間

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2時間少々で終点の宮古駅に着いた。駅前は何も変わっていないように見えた。実際、駅前は膝上程度の津波ですんだらしい。

三陸鉄道を訪ねる時刻まで少し時間があったので、海に面した閉伊川の河口に向かって歩いてみた。河口に近づくにつれ、損壊した家や商店の数が少しずつ増えてきた。軒先の前には水に濡れた家具がずらりと置かれていた。

5~6分歩いた頃、周囲を見渡すと、船が道路に乗り上げ、自動車が横転していた。テレビで幾度となく見た光景だったので、自分でも意外なほど驚きはなかった。

三陸鉄道の望月正彦社長(当時)=2011年3月(記者撮影)

むしろ衝撃を受けたのは自分の足元だった。散乱していたのは、本、雑誌、DVD、靴、傘、サッカーボール。ほんの2週間前までは、生活の一部だったものばかりだ。心臓の鼓動が速くなるのが自分でもわかった。

商品券のようなものが落ちていた。金銭的な価値があるはずなのになぜ誰も拾わないのだろう。私も手を伸ばしたが、やっぱり拾うことができなかった。

市内を少し歩いたあとで、宮古駅に隣接した三陸鉄道の本社で望月社長にお会いした。無精ひげで、作業着姿だった。復旧作業で忙しい中、震災当時の状況や、どうやって一部運行再開にこぎつけたかを丁寧に説明してくれた。インタビュー終了後には、「この状況をしっかりと記事にしてください」とお願いされた。

人々を元気づけた「普段通りの列車」

取材後、宮古駅から列車に乗り、沿線最大の被災地域である田老に向かった。信号が復旧していないため、各所に駅員が立ち、手旗信号で列車を運行させていた。自転車とあまり変わらない時速25km程度でゆっくりと進み、田老駅に到着した。

かつて駅前にあった町並みの代わりに瓦礫の山が広がっていた。駅で数人の乗客が降り立ったが、その姿が見えなくなると動いているものは何もない。時が止まっているようだった。

瓦礫の中をあてもなく歩いていると、駅のほうからエンジン音が響いた。振り向くと先ほど乗っていた列車が動き始めていた。列車が普段どおり動いている姿がどれほど人を元気づけるのか。夢中で列車に向かって走って、カメラのシャッターを切った。その1枚が、4月11日に発売された「鉄道被災」の表紙を飾った。

三陸鉄道の取材ルポは『週刊東洋経済』が提携している台湾の経済誌『今周刊』にも転載された。後日、望月社長が「台湾からもたくさんの寄付があった」と話してくれた。

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