お父さんの蔵書である『フフフの歩』『世界は右に回る―将棋指しの優雅な日々』など、初めて指導対局してもらった先崎学さんが描かれたエッセイ本を読んだのも大きかった。
「すごく面白かったんです。将棋界に憧れを持ちました。自分がいる世界とは全然違う、めちゃくちゃ昭和の世界なんだなと思いました。女流棋士になったら、本の中の世界に入り込めるんじゃないかと思いました」
山口さんが入学した小学校は、小学校2年生まで将棋の授業があった。もちろんたまたまではなく、お父さんが「女流棋士になるなら」と将棋の授業がある学校を選んだのだ。学校では1年に一度、クラス全員が参加する将棋大会があった。
「自分がいちばん強いと思っていたんですけど、1年のときも2年のときも、決勝戦で負けてしまいました(笑)」
お父さんは、
「女流棋士になるなら、強くなるペースが遅いんじゃないか?」
将棋の聖地、東京・千駄ヶ谷へ転居
と危惧して、山口さんが小学校3年生のときに千駄ヶ谷の東京・将棋会館の近くに引っ越した。もちろん小学校も転校した。
東京・将棋会館の2階は、将棋道場になっており毎日10時から20時まで自由に将棋を指すことができる。
ちなみに東京・将棋会館では、プロの棋士の対局が行われていたり、将棋道具の販売もしていたりする。
山口さんは、小学校の授業を終えると、毎日将棋会館に通った。
「プロの棋士を目指している子がいつも3~4人はいました。毎日、道場の手合い係さんに手合いをつけてもらいました」
家族ぐるみで山口さんが女流棋士になるのを応援する理想的な環境に思えるが、そうは問屋が卸さなかった。
「小学校5年生のときに反抗期をむかえました。父がスパルタ教育だったのもあって、猛烈な反抗期でした。自分がやりたくて女流棋士を目指しているのか、父が女流棋士にさせたいだけなのかが、わからなくなってしまいました」
小学校5年生は自分の中で考え、整理をつける期間になった。
中学受験もすることに決め、塾にも通うことにした。将棋と学業、両方をやって自分がどうなりたいのか1年間考えた。
「そして考えぬいた結果『自分は将棋が好きだから、女流棋士になろう』と決めました」
学校の勉強を一生懸命して大成しようと思ったら、どうしても将棋から離れる期間ができてしまう。しかし将棋からは離れたくはなかった。だったら将棋で大成するしかない。
小学校4年生から研修会という育成機関に入っていたが、小学校6年生のときからさらに女流棋士を育成する機関、女流育成会に入った。また小学校5年生のときには、棋士の堀口弘治さんに弟子入りした。
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