世界の哲学者が考える「テレビ」に問われる役目 TVの鑑賞は哲学ではどう位置付けられているか

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また、ホットとクールの区別は、「参加度」の違いによっても説明されます。たとえば、講義と演習が区別され、講義はホットなので学生の参加度が低く、演習はクールなので学生の参加度が高いとされます。この区別も、厳密というより、イメージ的には理解できます。

マクルーハンのこうした区別は、当時(1960年頃)の技術水準のもとで考えられていますので、今日でも同じように当てはまるかどうかはわかりません。また、マクルーハンの区別が、「ラジオと電話」、「映画とテレビ」における対比なので、「ラジオとテレビ」にそのまま使えるかどうかも検討が必要です。それでも一応、彼の区別を記しておくことにします。

【ホット(高精密度、低参加度)】ラジオ、映画、写真、講義、書物

【クール(低精密度、高参加度)】電話、テレビ、漫画、演習、対談

マクルーハンの規定では、ラジオは「ホットなメディア」とされ、演習に比べて参加度の低い講義になぞらえられます。講義は基本的には「聴き従う」のであり、話す人の言葉を黙って受容する、というわけです。

この特性を最も有効に利用したのが、ナチスドイツです。ナチスが権力奪取した数日後、宣伝部長を務めていたゲッペルスは日記のなかで次のように書いています。

ラジオは送信者と受信者の非対称な関係

(ラジオ放送の)スピーカーは大衆プロパガンダの道具であり、それがどれほど有効であるかは、今日なお計りしれない。いずれにしても、我々の敵はそれを利用するすべを知らなかった。それだけに、我々はなおいっそう、それを扱うすべを学ばなければならない(ヘーリッシュ『メディアの歴史』)

ラジオにおいて基本となるのは、送信者と受信者の非対称的な関係です。送信者の声を受信者が注意して聴き、その内容(命令)を真実として受け入れるのです。だからこそ、ラジオは大衆プロパガンダの有効な道具と理解されたのです。「国民ラジオ受信機」がドイツで熱心に製造された理由も、ここにあります。

注目したいのは、ラジオを聴くことが、その声に従うことと結びついていることです。ナチスが発見したのは、まさにこの関係なのです。ヘーリッシュは、次のように語っています。

ラジオ放送は大勢の聴衆の前でヒトラーが行う演説を中継した。(……)耳は口や目とは異なり、閉じることができないのである。したがってそれは受動的で、何かを受け取り、そして――このような言葉遊びをせずにはいられないのであるが――(他人の言うことを)聞く器官そのものなのである(同)。

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