世界の哲学者が考える「テレビ」に問われる役目 TVの鑑賞は哲学ではどう位置付けられているか
このままの訳では、最後に言われた言葉遊びの意味が、おそらく理解できないでしょう。そこで、原語で見ると、「(他人の言うことを)聞く器官(ge)horchende Organ」となっています。つまり、動詞のhorchen(聞く・聴く)とgehorchen(服従する)が、重ねられているのです。ラジオを聴く大衆は、ラジオの発信者であるヒトラーに服従するのです。
興味深いのは、ラジオ放送が発明され、実用化された時期に、「生きた声の息吹、生きた会話、神の呼び声といったコンセプト」がドイツでブームとなっていたことです。クラウディア・シュメルダースは、「悪の声――第3帝国における音響の形態について」というエッセイのなかで、次のように述べています。
「(1933年の直前の時期に、)聴覚および言語の響きの礼讃が哲学と言語学を(席巻したのである)」。また、その当時ハイデガーが『存在と時間』のなかで、「聞くこと(Hōren)」の意義を強調し、「おしゃべり」ではなく「傾聴する(Horchen)」ことを求めていた点も、参考になるでしょう。
テレビはどういう役目なのか
ラジオが聞く・聴くことによって服従化の道具として活用されたとすれば、テレビはどう考えたらいいのでしょうか。
テレビは映画と違って、それぞれの家庭で見るもので、そのため画面はとても小さくなっています。そのため、登場人物も小型サイズの人間であり、アドルノはそれを「小人」と呼んでいます。
この点で、大画面の映画を崇拝的に見るのと対照的に、テレビでは玩具のように「優越感」を抱く、とされます。こうした特徴を挙げながら、アドルノはテレビに関する定番となった規定を語っています。
見せられるものの内容は、強制される消費者がそれ以外のところにおいて詰めこまれるもの以上に、愚かしいことはないにせよ、状況が白痴化するのです。
音響的なものに視覚的なものが加わるために、消費者は映画より快適であり、より安価なテレビの奴隷におそらくなるのであって、消費者はラジオ以上にテレビの奴隷と化すでありましょう。見ざるをえないこと、それが直接的退化なのです。ほかならぬ視覚的作品の飛躍的普及が、それに決定的に関与しました(アドルノ『批判的モデル集1』)。
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