世界の哲学者が考える「テレビ」に問われる役目 TVの鑑賞は哲学ではどう位置付けられているか
19世紀の技術メディアが記憶保存メディアであったとすれば、20世紀のメディアは伝達メディアが中心となります。その中でも特に、20世紀前半に代表的となったのがラジオです。その意義を、ヘーリッシュは次のように表現しています。
ラジオによってはじめて可能になる経験は、今日、わたしたちにとってごくありふれたものだが、ラジオが普及しはじめた時代の人々にとっては、二重の意味で不気味なものであった。メディアは第1に、紙、ローラー、フィルムのように手で触れることができるものから解放され、妙に物質性を欠いた、空気のようなものになる。しかしそれによって、メディアは第2に、出来事をリアルタイムで大勢に中継することができるようになる(ヘーリッシュ『メディアの歴史』)。
ラジオの時代が到来する
このように、第1次世界大戦の後にラジオの時代が到来したと言われますが、これと同じように表現すれば、第2次世界大戦の後にテレビの時代が到来すると言えます。
もちろん、散発的には、第2次大戦前からテレビ放送は行われていましたが、社会の中で爆発的に普及したのは戦後なのです。2つの世界大戦を境として、ラジオとテレビという20世紀の主要な伝達メディアが誕生したのです。
問題は、この2つをどう理解するかにあります。たとえば、マクルーハンは『メディア論』のなかで、「ホット」と「クール」という対概念を出して、ラジオは「ホットなメディア」、テレビは「クールなメディア」と区別しました。しかし、その区別はどのような意味なのでしょうか。
マクルーハンによれば、ホットとクールを区別するのは、「高精密度」、つまり「データを十分に満たされた状態」かどうか、とされます。この表現は必ずしも厳密とは思えませんが、たとえば「写真」がホット(「高精密度」)、漫画がクール(「低精密度」)と言われると、何となくイメージできるでしょう。
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