NECでの異色キャリア
三宅:いわゆる「ガッツテニス」ですね(笑)。オーストラリアでは特にメインフレームの営業を手掛けたということですが、これは本当にゼロから独りで立ち上げたのですか?
市村:ええ。市場調査からスタートして、売れたらエンジニアを雇っていいと言われていましたが、最初の1台が売れるまでに1年間かかったのです。その1年間は独りで悶々としていましたね。当時のメインフレームはとにかく大きいし、稼働させると熱を持つので専用の空調のきいたコンピュータルームに置かないといけない。だから初めて注文を取ったときは、自分でヘルメットを被って搬入先のエレベーターのサイズを測り、「うちの大型機がここに入るかな」って確認したり、コンピュータルームの設計を議論したりしました。
三宅:そんなことまで。でも1台でも売ると、風向きは変わってくるものですか。
市村:変わりましたね。最初にドンと取れたのが、四十数億円の売り上げでしたから。
三宅:四十数億円! 大金星ですね。
市村:そこから勢いがついて、その後の2年間で12システムを売りました。それらは、売り上げにすると各プロジェクトが数億円から数十億円規模でしょうか。その後、人も増やして、私のいた4年間で関連の人員は60人か70人ぐらいになりましたね。
三宅:すごい成功体験ですね。それで、本社に戻り、企画部門に行かれた。
市村:ええ。でも実は企画に行くのが嫌で嫌で。何をするのかなと思ったら、いろいろな役員と一緒に関連省庁へ行って、製品や技術の標準化について話し合ったり、そのための原稿を書いたり。アメリカのパソコン会社の大型買収プロジェクトや新事業開発とか、もう全然違う世界に入ってしまいました。中期計画を立てるための議論もしましたけど、正直なところ、それほど面白いと思えませんでした。
三宅:当時はつまらなかったのですか?
市村:ものすごく忙しくなりましたから、充実はしていました。でもやっぱり現場が好きでしたから、ちょっと物足りないと思っていました。ですから、買収した企業のPMIや半導体工場の設立を検討していても、「どうやって、何を売ろうか」ということをつねに考えていました(笑)。
三宅:でも、営業をやり、企画をやり、新事業をやり、M&Aをやり、実にいろいろな経験を積んでいますね。NECでもそこまでのキャリアの持ち主は珍しいような気がしますが?
市村:極めて少なかったですね。このようにいろいろな経験を積めたことは、今、振り返ってみても感謝しています。その後は2000年ぐらいから、アメリカの現場でのビジネスに張り付きました。最初は東海岸で、2002年からはカリフォルニアに移り、日本に帰ってきたのが2008年です。ボストンとかニューヨークなど東海岸にいたときは、ベンチャー的に会社を立ち上げて、小さいながらもいくつか100~200人規模の会社のボードメンバーに入ってマネージしたりしていました。
三宅:本当にいろいろな経験をされていますね。次回はこれらの経験を踏まえて、コニカミノルタでどのようなサービス事業を目指しているのか、そのためにどんなマネジメントを行っているのかをお伺いしたいと思います。
(構成:長山清子、撮影:尾形文繁)
※ 続きは7月2日に掲載します。
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