哲学者が議論「監視の技術」はいつ誕生したのか 近代特有なのか、古代にも存在していたのか

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さらに、フーコーの「パノプティコン」は、「規律・訓練」を行うために実施されます。理想的には、監視の目を自分のうちに内面化して、監視されていなくても秩序を守る従順な人々にするのが目的です。ところが、現代のデジタルな監視では、「規律・訓練」は期待されていませんし、不可能にもなっています。したがって、デジタルな「監視」を取り除けば、人々が従順に振る舞うとは想像できないのです。

だとすれば、「スーパー・パノプティコン」はただ「監視」という1点でのみ、「パノプティコン」と連続しているにすぎず、それ以外の側面ではまったく異なる形で理解すべきものです。

ここで、あらためてフーコーの「パノプティコン」モデルそのものを見直して、フーコーの議論の問題点を確認することにしましょう。

というのも、フーコーは「近代」の特質として、「少数者が多数者を見る」監視社会として描きましたが、この理解それ自体が怪しいからです。まず、フーコーの言い分を確認しておきましょう。

古代と近代で対比して考える

古代は見世物(スペクタクル)の文明であった。「多数の人間をして少数の対象を観察可能にさせる」というこの課題に応じるのが、寺院・劇場・円形競技場の建物であった。(……)ところが近代が提起するのは、あべこべの問題、つまり「少数者に、さらには唯一の者に、大多数の者の姿を即座に見させる」のである。(フーコー『監獄の誕生』)

この図式化は、古代と近代を対比し、さらにその違いを見る者と見られる者の数の逆転と考えています。

古代(見世物)
多数:見る者〔観客、信者…〕     
少数:見られる者〔役者、司祭…〕 
近代(監視)
多数:見られる者〔囚人、生徒…〕
少数:見る者〔看守、教師…〕

しかし、こうしたフーコーの議論に対して、トマス・マシーセンは論文「観察者社会」(1997)において、批判を行っています。

こうした歴史的な理解はきっと間違いであろう。事実により近いのは、次のことである。パノプティコン的なシステムは、過去2世紀の間にきわめて発展したが、しかし、ルーツとしては古代にある。単に個人の監視技術だけではなく、パノプティコン的な監視システムのモデルもまた、初期キリスト教かそれ以前に遡るのである。(マシーセン「観察者社会(The viewer society)」)

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