本能寺は「織田信長の定宿」は大きな誤解である 本能寺の変にはなぜこんなにも誤謬が多いのか
では、この「女共」とはいったい何者なのか。信長自刃まで信長の身辺に付いていたというが、厨房の奥深くの下働きの2、3人の女ならいざ知らず、際立った「女共」はほとんど皆無だったはずである。
なぜなら49歳の信長の身辺の世話は、お気に入りの小姓たちで事足るし、1年ぶりの上洛(天正9年2月以来)も、今回は中国攻めの先立ちであり、なおかつ博多の豪商茶人・島井宗室との「本能寺茶会」が何よりも優先すべき事柄だったからである。
太田牛一の致命的な欠陥は、現場・本能寺の状況を確実に把握していなかった点につきよう。すなわち、信長が前述のように本堂の堂宇から隔離された「別御殿」に居たのにもかかわらず、現場不在の牛一は、信長を本堂中央にまで引きずり出して白綸子の寝間着スタイルで弓を引かせたり槍をふるったりして大活躍をさせてしまった。
そしてこの活写が後々の時代劇にまで影響を与える、名場面となって定着してしまったのである。
『信長公記』が成立して、最初に世に出たのは
何よりも決定的なことは、『信長公記』が成立して世に出たのは慶長15年(1610)2月、池田輝政に贈ったのが最初という事実である。実に「本能寺の変」から28年後、徳川家康の死の6年前である。
しかも、現存する『信長公記』は3冊だが、当時は印刷技術などなくすべてが写本だったから、最終的には何冊あったのか、はたまた誰が読んだのかもわからない。
そう考えてくるとこの「是非に及ばず」という名台詞は、いつ頃から人口に膾炙(かいしゃ)されるようになったのだろう。意外に近年になってからのことかもしれないのだ。
ともあれ、信長はあの極限の場面で「是非に及ばず」などとは言っていない。あくまでも太田牛一の創作だったのである。
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