本能寺は「織田信長の定宿」は大きな誤解である 本能寺の変にはなぜこんなにも誤謬が多いのか
また、2007年の『京都新聞』(8月7日付)に寄稿されている今谷明・日本文化センター名誉教授によると、
「織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿であり、建物は最大40メートル四方クラスらしい。予想外に簡素だった理由について、『近々、大坂本願寺跡に新築中の城に移る予定だった』と推定され、テレビドラマで繰り返して放映される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が高くなった……」
ということになる。
信長が“たった2回”宿泊した本能寺は、大坂城完成までの仮の宿であり、しかも本堂の堂宇とは隔離された、あくまでも別館だったのである。
たった2回の本能寺泊の実態にもかかわらず、「本能寺の神話化」、すなわち城塞化が続出するのである。
信長は「是非に及ばず」と言っていない
光秀の謀叛を知ったとき、信長はうめきの声のように「是非に及ばず」(仕方がない)と言ったとされてきた。すなわち、
「はい、明智が者が」(森乱丸)
「そうか、是非に及ばず」(信長)
という流れであって、「ええっ! まさかあの光秀が! なぜだ!」という驚愕の響きではない。信長ほどの武将が「そうか、光秀か、やむをえまい」とあっさりと覚悟を決めてしまった。
これは、信長が今まで何度も光秀を虐(いじ)め抜いてきたので、こうなることは当然の結果と一瞬の内に諦めの境地に達したのであろう、と考えられてきた。
そうではない。
信長は本能寺で「是非に及ばず」という言葉を発していないのである。いや、仮に発したとしても誰も聞いていない。「是非に及ばず」は『信長公記』の著者である太田牛一の創作にすぎない。まったくの虚構なのである。
本能寺の変からさかのぼること12年前の元亀元年(1570)、信長は朝倉義景攻めのとき、義弟・浅井長政の裏切りに遭って挟み撃ちの状況下に置かれ、まさに絶体絶命、窮鼠の境地に追い込まれた。このときに「是非に及ばず」という言葉を発しているのだ。
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