本能寺は「織田信長の定宿」は大きな誤解である 本能寺の変にはなぜこんなにも誤謬が多いのか

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太田牛一も、『信長公記』巻三で次のように記している。

信長公は越前の敦賀に軍兵を繰り出された。(略)ついに木目峠を超えて若狭の国にどっと攻め入る手はずであったが、江北の浅井備前守が背いたとの知らせが、つぎつぎと信長公のもとに伝えられた。(略)寝返り説は虚説であろうと思われたのであるが、方々から「事実である」との知らせが伝えられて来るのであった。

ここに至っては「是非に及ばず」と撤退を決意された。(榊原潤訳)

太田牛一はこのときの記述に倣って、万事休する「本能寺」の極限でも、信長をして再度「是非に及ばず」を言わしめたかったのであろう。

つまるところ、「是非に及ばず」は、信長の常套句、もしくは口癖であったにすぎない。だから信長が最後に万感の思いで発した名言なんぞでは決してなく、単なる太田牛一演出の作為にすぎないのである。

「本能寺の変」の当日、太田牛一は京都に居なかった

第一、いちばん問題なのは、肝心の「本能寺の変」の当日、この太田牛一は京都に居なかったのである。太田牛一は、出張先の加賀の松任(まつとう)で事変を遅れて聞き、あわてふためいて京都に戻るものの、到着したのは約1週間後。本来、現場主義に徹するべきルポライターが生々しい現場を全然体験していなかったのだ。当然のことながら、最後の場で信長が何とつぶやいたのか、聞けるはずがない。

失地回復を目指すルポライター・太田牛一は、遅ればせながら精力的に事変後の聞き込み調査を開始する。そして、「女共、この時まで居り候て様躰見申し候と物語り候」と書いている。つまり、信長の本能寺入りから自刃まで側近くいたという「女共」から徹底的に取材をして確固たる事実を掌握した、と逃げを打っているのである。

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