本能寺は「織田信長の定宿」は大きな誤解である 本能寺の変にはなぜこんなにも誤謬が多いのか

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それなのに、本能寺が信長上洛の際の定宿だと思っている人が、本能寺の変に詳しいと自称されている人の中にも存在するので、驚いてしまう。

本能寺はあくまでも仮の宿だった

2013年9月のことであるが、BS―TBS放映『ライバルたちの光芒』の「光秀 vs. 秀吉」の最終回に、光秀の弁護役で出演することになった。その番組において、私は、

「信長の謀殺を狙ったある組織が少数での信長の上洛を謀り、6月2日早暁、無防備な本能寺を襲った」

と解説した。

ところがこの番組で相対する、秀吉の弁護を務めた加来耕三氏は私の説に、

「本能寺は普通の寺ではなく、改造された城郭で、1千の兵が攻めても落ちないようにできている。偶然、1万を超える兵が攻めたから落ちた。無防備で、僅かな兵力で攻められるということはまったくありえない」

とのたまった。これはいかに作家諸氏が、本能寺を過大評価しているかの証左でもある。

本能寺は信長の定宿である。
→だから敵の襲来に備えて城郭のように改造していた。
→だから光秀は1万を超える兵で攻めた。

という論になるわけだが、これはそもそものスタートが間違っている。本能寺は、信長の定宿ではなかった。だから、城郭のように改造することもなかったし、1万を超える兵で攻める必要もなかった。

信長はあらゆる機能が集中していた石山本願寺跡地が城郭を築くのに最適な拠点と認識しており、織田信澄、丹羽長秀の2人を普請奉行として当たらせていた。本能寺の変当時は工事が7分どおり進んでいたらしく、「本能寺泊」は大坂城完成間近の臨時にすぎなかったのだろう。

「日蓮宗の研究」に詳しい藤井学氏が、「(本能寺は)北は六角、南は四条坊門、東は西塔院、西は油小路によって区切られ、周囲をぐるっと廻ると、四町(約440メートル)の長さがあった寺地だった」と記述している(『本能寺と信長』思文閣出版)。この一隅の居館を「御成(おなり)御殿」と呼んでおり、本能寺の堂宇とは一線を画している。

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