「総駆り立て体制」が生き辛さの根源である理由 「ニヒリズム」に毒された現代文明を解剖する
私自身、「思想」なるものを学ぶようになったのは、私が学生だった1990年代末、著者とその著作に出会ったことがきっかけだった。当時の著者は、主として国家の問題を論じていた。
国家とは何か。国民とは何か。市民とは何か。法とは何か。主権とは何か。こういった問題について、古今の哲学者をはじめ、最新の政治学研究の成果も手がかりとしながら、ご自身なりの見方を示し、戦後日本社会の欺瞞や倒錯を鋭く指摘していた。
ついでに言うと、私が2018年に上梓した『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』という著作で論じた国家論や市民論は、学生時代に著者から学んだそれらが下敷きになっている。拙著には「目から鱗が落ちた」という趣旨の好意的な評価を多数いただいたが、それは実は、20年以上も前に、私自身が著者の講義や著作から得た知的体験でもあったわけである。
保守主義とは何か
著者はまた、「保守主義」の代表的思想家でもある。ただし、それは政治的立場としてのそれではない。あくまでも思想としての保守である。とくにわが国においては、両者はむしろ相容れない。つまり、政治的立場としての保守を標榜する者たちが、実は思想的にはまったく保守的ではないのだ。
思想としての保守主義は、まず何よりも、人間と理性に対する懐疑をその核心とする。人間中心主義や理性万能主義を警戒するのである。たかだか人間ふぜいが頭で考えた程度のことが、絶対的・普遍的に正しいなどと考え始めると、人間も社会もおかしくなる。人間とは本来、有限で愚かで誤りやすい生き物なのだ。
では、人は何を頼りにすればよいのか。そこで、「歴史」「伝統」「習慣」といった観念が意味を持ってくる。時間の経過に耐えて長く受け継がれ、人々の間で暗黙のうちに共有され、たとえ合理的な理由や根拠はわからなくても、人々の生活を緩やかに律し、生と死に意味を与えてきたもの。
そういうものこそ、最も信頼に足るものであり、したがって、社会の政治や道徳も、それらを基礎として考えられなければならない。
この保守主義の考えのもとに、著者は数十年来、一貫して、共同体と伝統の破壊、歴史の否定、個人的自由の過剰な氾濫、道徳意識の崩落、等々といった戦後日本社会の傾向を、しかも保守を標榜しているはずの政治こそがむしろそれらを率先して推進している現実を、鋭く批判してきた。
そしてさらに、戦後日本にとどまらず、世界的にそれらの傾向をもたらす思想的根源としての「近代主義」、つまり、きわめて一面的で表層的な合理主義、科学主義、技術主義、個人主義、自由主義、市場主義、そしてそれらに駆動されるグローバル資本主義へと、批判の射程を広げていったのである。
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