「総駆り立て体制」が生き辛さの根源である理由 「ニヒリズム」に毒された現代文明を解剖する
私が著者と出会った1990年代末頃、著者はよく、「これからは日本のことを論じたい」と言っていた。保守主義は共同体の文化や伝統にこそ信頼を置く、と言うが、ではわれわれ自身が拠(よ)って立つべき日本の文化や伝統とは、具体的にはどういうものなのか。著者は当時から、その点についての自分なりの見方を示す必要を考えていたのであろう。また、その際、「とくに京都学派に関心がある」ということも、よく言っていた。
そして現に、2000年代後半になると、『日本の愛国心――序説的考察』(NTT出版、2008年)を皮切りに、「日本」を主題として論じることが増えてきた。次第に西田哲学に没頭し始め、2014年には『西田幾多郎――無私の思想と日本人』(新潮社)を発表した。
さらに、2019年には言論誌『ひらく』を創刊し、日本文化・日本思想を主題とする多様な研究論文を掲載するとともに、ご自身の日本論を展開している。
ひょっとすると、読者の中には、こういう近年の著者の言論を、突然の「日本回帰」のように受け取り、いぶかしがっている人もおられるかもしれない。私の近辺でも、しばしばそういう声が聞こえる(「最近の佐伯先生はどうしてしまったのか?」と)。
しかし、決してそういうわけではないということが、上記からもおわかりいただけるだろう。保守主義者が、保守すべき「日本」とは何かを論じるのは、当然のことであり、これは著者の思想家としての知的誠実さの表れ以外のなにものでもない。
「価値」を見失った現代文明
さて、以上のような背景をもとに本書を読むと、これが著者のこれまでの思想の「集大成」であると同時に、それを踏まえた今後のさらなる展開を眺望する「新境地」を示すものでもあることが、おわかりいただけるはずである。
具体的には、まず第1章では、トランプ現象を題材に現代の民主主義が批判的に考察されており、これは著者の数十年来の戦後民主主義批判と軌を一にしている。
第2~3章では、表層的な近代主義がもたらした人間精神の低俗化や大衆社会の問題が論じられている。
第4~6章では、ニーチェとハイデガーを中心に、科学主義や技術主義がもたらす現代のニヒリズム状況が解剖され、第7章では、グローバル資本主義の暴走をもたらした経済学への批判が集中的に展開されている。
そして第8章と終章では、西田哲学を中心に、日本思想の特質が論じられ、そこに現代文明の行き詰まりを乗り越える可能性が探られている。
おそらく著者自身、自らの思想の「集大成かつ新境地」とすることを意識して、本書を執筆したのだと思う。著者の著作はほとんど全部読んできた者の目から見て、本書を読んだ最初の印象は、「大変な熱の入りようだ」というものだった。かなり「本気」で書かれた1冊であることは、間違いない。
その結果として、本書は、まず分量自体、500ページ近い大著になっている。これは50冊近くに及ぶこれまでの著者の著作の中で、最大である。また、内容や文体も、必ずしもわかりやすく読みやすいものではない。読者はかなり腰を据えて読むことが求められるし、たぶん著者もそれを願って書いたのだろうと思われる。
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