「総駆り立て体制」が生き辛さの根源である理由 「ニヒリズム」に毒された現代文明を解剖する

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だが、なぜそんなことになってしまったのか。その答えを、著者はとくにハイデガーの思索をたどりながら、ずばり西洋哲学の伝統である「主体の形而上学」に求める。

これは確かに難解な哲学問題ではあるが、簡単に(単純化して)言えばこういうことだ。

プラトン以来の西洋哲学は、イデアなり神なり、何か世界(自然)を作る主体をまず想定してきた。存在するものの根底に何が「有る」のか、簡単に言えば「何が世界を作ったのか」を考えてきたのである。

そしてこのとき、人間もまた、世界において特権的な位置を占める。なぜなら、このとき、イデアの直観なり神の意志なり(と称するもの)に基づいて世界を作るのは、事実上、人間自身であるからだ。人間が世界を作る主体となるのである。

重要なことは、ここでは、「価値」の源泉は世界(自然)自体ではなく、その外部にあるということである。イデアなり神なりといった、世界そのものを超越したところに価値の源泉があり、それに基づいて、人間が世界を作り、あるいは作り変え続けるのである。

ところが、そのイデアや神もまた、人間が作り出した虚構にすぎない、となれば、どうなるか。当然、あらゆる価値は人間が作り出したものであり、しかもそれは、本質的に主観的で、何の根拠もないものだ、ということになるであろう。これがニヒリズムである。

神を否定したニーチェは、人間は力への意志によって、絶対的に自由にあらゆる価値を作り出すことができるのだと説いたが、実はこれこそが、西洋哲学が行き着いた究極の「主体の形而上学」であり、ニヒリズムなのである。

著者は本書において、再三にわたって、これを「恐るべき」ことと表現する。西洋哲学は必然的にニヒリズムに至り着く。いや、そもそもが本質的にニヒリズムだったのである。だとすれば、西洋文明が価値喪失と総駆り立て体制へと至り着いたこともまた、必然である。

そして、この「西洋のニヒリズム」が世界化(グローバル化!)した世界に、今われわれは生きているのである。

希望としての日本思想

このように論じつつ、しかし著者は、同時にこのようにも問う。

日本人はそもそも、このような問いを問うてきたのだろうか。何が世界を作ったのか、などという問いは、それ自体がきわめて西洋的なものであり、日本の精神的伝統においては、そのような問いを立てるという発想そのものが、そもそもなかったのではないか。だとすれば、現代のニヒリズムという問題は、本当は日本人にとって、無縁のものではないのか。

日本思想は、世界(自然)の外側に世界を作った主体があり、またそこにこそ価値の源泉がある、などとは考えてこなかった。世界(自然)は、ただ端的に「有る」のであり、その外側からそれを作った主体などというものは「無い」。

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