合計1250人逮捕した「名物刑事」の悔いなき人生 横浜のドヤ街・寿町で彼は今も生きている

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「例えば、福富町(伊勢佐木町に近い歓楽街)あたりで飲んでるサラリーマンと寿町で酔っぱらってる労働者と、どっちが扱いやすいと思います? 一般のサラリーマンは権利意識ばっかり強くて、けんかを止めに入っても『なんだこの野郎』って態度の人が多いんです。でも、寿町の人は『ダンナ、どうもすみません』ってね、根がいい人が多いんですよ。寿町のほうがずっと人情味があるんです」

暴動

交番勤務についた翌年、西村はある出来事に遭遇して、寿町が人情とは言わないまでも理屈や権利意識とは、まったく異なる原理で動いていることを実感することになる。

寿炊き出しの会が発行している『第24次 報告集』の「寿地区の歴史」を見ると、1965年(昭和40年)の欄に「日雇い労働者への警察官の対応で寿派出所を取り囲む騒ぎ」とあるが、この文言とほぼ同じ事態を、西村は8年後の昭和48年に経験している。

当時の寿町交番は現在の「木楽な家」(高齢者施設)のあたりにあり、常時7、8人の警官が配備されていたが、昭和48年のある晩、約500人の暴徒によって包囲されてしまったのである。

暴徒の憤りの理由は、まさに報告集の記述と同じ「日雇い労働者への警察官の対応への不満」だった。しかしそれは、決して弾圧への不満ではなかったと西村は言う。

「当時の寿町は、西部の町と呼ばれていたんです。西部劇の西部ですよ。なにしろ駅のラッシュみたいな騒ぎが朝から晩までずっと続いているわけだから、もう切った張ったの世界でね、盗みだのけんかだのが毎日20件以上もある。だから、ほかの交番だったら事件化するようなことでも、寿町では事件化している暇がないんです。そうすると、警察は俺たちを守ってくれないのかってことになるわけです」

暴動と聞くと、背後に左翼系活動家の存在を想像してしまうが、西村の言葉を借りれば、寿町のひとびとは「賢明にも」活動家の扇動には乗らなかったという。

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