節分のとき、「鬼は外、福は内」と言って福豆を撒いて、年齢の数だけ豆を食べる厄除けを行うのが一般的な習わしだが、日蓮宗では「鬼は外」を省いて「福は内」とだけ言うことが多く、さらには「鬼は内、福は内」と言う宗派もある。これは「鬼子母神」(きしもじん、きしぼじん)が法華経の守護神であることが理由だ。
鬼子母神はインド神話の鬼女神だ。もとは王・般闍迦(はんじゃか)の妻であり、五百人(諸説あり)の子どもを持つ鬼女だったといわれている。人間の子どもをさらって食べることから、恐れと憎しみの対象になっていた。それを見かねた釈迦は、彼女の最愛の末っ子を隠し、子どもを失うことの悲しみや苦しみについて説いたところ、のち仏に帰依 (きえ)して仏法の守護神となり、出産・育児の神となった。
ここには、福も鬼もすべて自分の中にあるというリアリズムがある。この場合の鬼とは、ある種の精神の状態を指していると言ってよいだろう。例えば、天台宗の教義には、十界(じっかい)というものがある。人間の心の境地について、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道と、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖(ししょう)に分類したものである。
「悪の外部化」でなく「内なる悪」の自覚
これは、誰もが人非人のごとき鬼になりうる時代に見合った人間観といえる。勧善懲悪的な「悪の外部化」ではなく「内なる悪」の自覚にこそ焦点が当たっている。『鬼滅の刃』はこれに非常に近い立場を取っている。「変態する世界」において普遍性のある視座が、歴史の古層から意識的に掘り起こされたのである。
これらの新旧の概念との親和性を考慮すると、ロマンと社会不安の坩堝であった大正という時代設定も必然的に見える。
『鬼滅の刃』は、浅草名物の望楼建築である凌雲閣(りょううんかく)が登場することからして、1913〜23年という狭い時間軸の出来事を描いているのだが、大正は、哲学者の鷲田清一が「踊り場の時代」と呼んだように、現代とも幾分リンクする転換期と捉えられる。わたしたちもまた「どのように社会が移っていくのか見通せない、一種の『まどろみ状態』」にあるからだ(鷲田清一編『大正=歴史の踊り場とは何か 現代の起点を探る』講談社選書メチエ)。
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