三宅:数学、エンジニアリング、現場、それから海外との調整もあって――となると、プロデュース機能がそうとう必要になる話だと思いますが、よくまとめましたね。
玉井:当時は珍しい事例だったので、私が雑誌に書いた記事を読んで、ほかの石油会社の人が話を聞きにきたこともありました。そしてそれからずっと後になって川崎の製油所が2011年に閉鎖されたとき、現場の方々から私のところに製油所の銘板が送られてきました。これはうれしかったですね。今も社長室であるこの部屋に飾っています。
花形ではない分野で、新しい仕事をつくる
三宅:石油会社なのに、ガスを使い、電気を作り、それを全部制御したということになりますね。さぞかし画期的な取り組みだったことでしょう。そして、玉井さんが新しい事業のやり方をプロデュースしたことは、会社にとっても大きな意義があったことと思いますが。
玉井:当時こういうユーティリティ関連業務は、製油所の組織からいうと、実はあまり地位が高くなかったのです。やはり花形は石油精製プラントでした。まず蒸留があって、ガソリン、灯油系があり、出てきた重油を分解するというプロセスです。しかしこんな端っこのユーティリティ業務にも面白いネタがあるのかな、と思ってもらえたのではないでしょうか。
三宅:「この仕事は本流じゃないから」などと言わずにきちんと取り組むと、意義のある仕事は実はたくさんあるというのは、たいへん示唆深いですね。さて、そういう成功を収めると、だんだんチャンスが回ってくるようになりそうですが、その後はいかがでしたか?
玉井:そうですね、ガソリンからポリエステルの原料になるキシレン、ベンゼンを抽出するプラントや、製油所のアナログ計器をデジタルに変更する仕事もしました。製油所ではメンテナンス以外の仕事はひととおりやりましたね。
三宅:あちらこちらで、これを変えよう、次はこれをやろうという感じで、周りからすると、「新しい仕事を作りだす仕事」をしていたわけですね。
玉井:そうですね。どうせやるなら単なる置き換えではなく、どうしたらよりよいものができるか、どんな付加価値をつけられるか、次はこのレベルを狙おうよ、と考えていくのがわれわれの仕事だと思っていたので、そこは一生懸命やりました。結局、製油所には1991年の秋まで11年半いました。
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