必然的に人々は、政府による決定や規制を求める。この課程でそれぞれの立場の人は自分に好都合な決定を求めて、大小さまざまな自分の影響力を使い、しばしば敵対する。SNSなどでは、それぞれ「友」と「敵」を狙い定めて、意見ではなく意見の持ち主である「人」に対して、まるで政治的非常事態のような闘争を仕掛ける。
これをやり続けると、人々の分断が進むのだが、負ける側で攻撃されたくない人は、さっさと闘争を避けて優勢な側につこうとする。「同調圧力」と戦わない方が、精神的資源を消耗しない。
背後に闘争があるので、優勢な側は、いわゆる「自粛警察」になったり、逆にコロナが下火の時は自粛派を「経済の敵」呼ばわりしたりする。いずれも、正義の側に立って快感を得る。見苦しいが、やっている本人は気持ちがいいし、仲間もいるので勢いがつく。
こうした課程を繰り返すことで、人は、何が規律かを見極め、規律への服従に慣れていく。大きな外部経済性を伴いつつ状況を変化させる新型コロナは、図らずも規律と服従の「訓練」の場を提供している。人々は規律を求め、進んでこれに服するように、「第3者に飼い慣らされる」のではなく、「自発的に適応する」仕組みだ。
行政のデジタル化は大いに進めるべき
一方、社会は急速にデジタル化を進めつつあり、政府も企業も個人のデータを大量に収集している。また、これを処理する手段も進歩している。
デジタル化が進むのは、大筋ではいいことであり、特に、行政はアナログで多くの人手が介在し、サービスを求める本人に手間と時間の無駄を求める現状を変える必要がある。ハンコの廃止も、デジタル庁の創設、行政の縦割り打破(本当にできるのか?)のいずれもいいことであり、「行政のデジタル化」は大いに進める必要がある。
行政のデジタル化を求めたときに、「個人情報・プライバシーの保護」を理由に情報を集約しない選択肢はない。国民のプライバシー保護のためにデータ統合を避けて「面倒な手続きを残そう」という意見は、既得権を守りたい組織が主張するかもしれないので、気をつけよう。
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