これがゼンショー流の成り上がり術だ ゼンショー・小川社長が語る経営哲学(2)

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――これは最近ですか。つまり、ココスとかウェンディーズを買収されたときから……。

買収したときはそういう言い方はしてなかったです。考え方としては、そういう目で見ていましたけれどもね。さっき言ったように、スピードがないなとか、次これができるじゃないか、今帰りにお皿をもう1枚持って帰れるじゃないかと、こういう見方をしていたわけです。

だけど、当時、2000年のココスは料理を届ければいいんだと。運べばちょっとひと安心で、またさらに転がってくるまで見ておこうかみたいな、そういう雰囲気だったわけです。

割り算からたたき込む

――小川さんは最初、野球に熱中していらして剛腕ピッチャーだったんですか。

創業からずっと横浜が本部でしたからね。品川に来たのはもう10年くらい前ですね。今ハローワークのあるところに越してきて、横浜時代と言っているんだけれども、2000年頃は事務所で硬球を投げて、それで硬球を打つわけ。エレベーターの鉄の扉もガーンとへこんだり。

――事務所の中でですか。

忙しいからね。毎週筋トレも義務だったしね。ベンチプレス何キログラムというのを張り出して、そういうノリでやっていたからね。だから、ひじもここまでしか伸びない。こっちは真っすぐ伸びるのにね。少し曲がっているでしょう。

それで、真っすぐは回転とスピードだよね。スピン、回転数が問題だ。それから、スライダー、そしてフォーク。フォークもそうとう練習したよ。好きだったんだ。自分の家でも中6日で150球、義務で投げててさ。中6日と言うと格好いいけれども、1週間1回(笑)。

当時、江川卓とか中6日くらいで100球肩とか言われていて、「俺は100球までしか投げないんだ」と。こっちは経営をやっていて、中6日で150球投げていたのに、とかね。硬球をやったら軟球なんかバカらしくてできないですね。投げている気がしない。硬球をバチっとたたくというか、気持ちいいよね。

――要するに、体を鍛えるためということですか。経営者、幹部は体を鍛えなければいかんと。

体力、知力と言っていたからね。言ったことはやるというので、自分から率先してベンチプレスをやってね。当時、UWFというプロレス団体、新日本プロレスにいた前田日明、最近はブヨブヨしているけれども、当時第一線級の選手をやっていた。前田日明にローキックを教わって、会社にもサンドバック50キログラムのを吊るして、自宅にも50キログラムのサンドバックを軒から吊るして、軒が大変なことになっていたよ。それで訓練をやっていたわけ。

1982年に創業したでしょう。このとき1983年3月決算は9000万円の売り上げ。0.9億円ですよ。超零細企業ですね。資本金100万円。そこから始めているから、零細企業から中小企業へというのが1980年代ね。だから体力、気力で、知力までなかなかいかないけれども、せめて体力、気力をと。大企業で育った人はわからないんだよ。

最初のスーパーバイザーが新潟の中学をオール1で卒業したというのが最大の自慢。カワムラというのだけれども、それが最初のスーパーバイザーで、彼が入ったときは客単価を出さないといけないわけね。売り上げ÷入客数ね。その割り算がどうしてもできなかった。

「社長、俺、新潟の中学でオール1で割り算はわからないんですけれども」と。「そうか。割り算をわからないのか」と(笑)。「おまえの家族でりんご1個を4人家族で分けるとどうなるか。これは1÷4なんだ」ということから始めた。でも、できなきゃしようがないから、小学校5年の算数と国語の5分間ドリルというのを買ってきたんです。それをネタにして教えたんです。そこから始めないと客単価を出せないわけ。だから、零細企業というのは大変。

そこからやってきているから、体力、気力だろうと。次に知力なんだと。本当にマネジメントにも必要だし。ということで、そういう考え方を貫徹してきたわけです。そのためには、社長自らやらないとね。中小企業なんていうのは社長がすべてだから。ということで、自らベンチプレスもやり、135キログラム上げられるようになったわけです。

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