「正義に燃える人」ほど他人に危害を加える理由 逆らう者を論破しても得られるものは特にない
僕は全共闘世代ですから、大学時代には人とぶつかったほうがカッコイイと思って、ディベートなどをやった時期もありました。
当時、大部分の学生たちは確固たる思想があって討論しているわけではなかったので、自分が間違っていると気がついても突っ張って曲げようとしません。それで最後はつかみ合いになる。そんな現場を見ているうちに、「くだらんことだなあ」と思って参加するのをやめました。「人と言い争ってもプラスになることはない」「人とぶつからないようにしよう」と思うようになったのは、その頃からです。
「正義」が抱える危うさ
僕が大学生だった1960年代の後半は、正義の名のもとにベトナム戦争に介入したアメリカが戦線を拡大する一方で、反戦運動が盛んになっていく時代でした。
「正義」によって戦争をするということは、「自分は正しい」という大前提のもと、「対立するやつらは悪だ」「だから懲らしめる」という論理。お互いの国に正義があるから戦争になるのです。だから、正義を声高に主張するのは、相手の立場を受け入れないという意思表示でもあるわけです。
こういうことに気づいたときから、正論を主張したり正義をかざしたりすることはやめました。そういう「議(自分の中にある意思)」というものは口に出さず、自分がやるべきことを黙ってやればいいと思うようになったのです。
「自分からは争いに参加しない」という考え方は、今も変わりません。誰かとぶつかりそうになったら、その場から逃げるか、話題を変えます。
新型コロナウイルス感染が広がる中で現れた「自粛警察」と呼ばれる人たちは、感染症という不安や恐怖が根底にあるものの、論理は過激な反戦運動家と同じです。
感染を防ぐためにはマスクをしていなければいけない、ソーシャルディスタンスを守らなければいけない、他県から移動してくるなんてもってのほかだ、という正義を掲げて、相手にどういう事情があるかということは考えずに懲らしめようとするわけです。
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