山口達也への強烈すぎる批判が本質ではない訳 個人擁護の必要はないが要所が抜け落ちている
被害者感情を無視して過去をほじくり返し、仲間のコメントを引用して人々の悪意を増幅したあげく、「今、山口容疑者は何を思うのだろうか」と締めくくるワイドショーもありました。これでは人々の懲罰感情を爆発させるだけであり、アルコール依存症や飲酒運転の抑制にはつながりません。やはり、そうした社会問題のプライオリティーは低いのです。
今回の山口さんに関する報道だけでなく、「日ごろからメディアに懲罰感情をあおられている」という現実を理解できたのではないでしょうか。
本質からズレた批判に被害者が苦しむ
では、なぜ「強烈な批判は、声を挙げている人にとっても得策ではない」のでしょうか。
メディアの報道と人々の批判を見ていて最も危惧したのは、「現在アルコール依存と戦っている人々に悪影響を及ぼしかねないこと」「飲酒運転事故の被害者に悲しみや怒りが再来しかねないこと」の2点。本質からズレた報道と批判が過熱するほど、当事者たちを苦しめることにつながってしまうのです。
もともとアルコール依存や飲酒運転が減らない社会は、自分にとってのリスクにもつながるもの。さらに言えば、「もし自分が何らかの依存症になったり、事件や事故に巻き込まれたりしたとき、批判にさらされるより助けが得られる社会であったほうがいい」という考えに及ばないのかと感じます。
現在、飛び交っている山口さんへの批判は、野球にたとえるとツーアウトでチェンジどころかゲームセット、サッカーにたとえるとイエローカード2枚で退場どころか永久出場停止。批判の声が増えるほど、たとえそれが正論であっても、「懲罰をベースにした失敗の許されない窮屈な社会に自分を押し込める」ことにつながってしまうのです。
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