中国共産党を悩ますイデオロギーの真空--イアン・ブルマ 米バード大学教授 ジャーナリスト

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 中国は20世紀に入って大きな変貌を遂げたが、一面では旧態依然としており、現在でも宗教的な政治哲学に支配されている。その正統性は、リベラルな民主主義に見られるような経済的合理性に基づく交渉と妥協に依拠したものではない。宗教的な政治の基礎は、国家的なイデオロギーの正統性に対する信頼である。

王朝時代には、それは儒教的な正統性を意味していた。儒教国家の理想は“調和”である。儒教の教えでは、人々が行動の道徳的規範を含む信念を共有すれば、紛争はなくなる。そうした制度の下では、子どもが父親に従属するように、支配される者は抵抗感を抱くことなく支配者に従属するようになる。

20世紀の最初の数十年間に多くの改革が行われた後、儒教は共産主義に取って代わられた。マルクス主義は現代的な道徳的な権威を中国に持ち込み、儒教と同じように完全な調和を約束したことで、中国の知識層の心をつかんだ。共産主義のユートピアが実現すれば利害対立は解消することになる。毛沢東支配は、中国の王朝制度の要素と共産主義の全体主義を結び付けたのである。

しかし、この正統性は消え去る運命にあった。現在では共産党幹部でさえマルクス主義を信じていない。このことによって思想的な真空が生じた。その真空は1980年代に入って強欲や冷笑主義、腐敗によって埋められた。こうした事態への危機感から天安門事件が起こった。劉は政府の腐敗に抗議し、自由を求めて立ち上がった学生の代弁者だった。

天安門での血塗られた弾圧の後、新しい権威すなわち国家主義がマルクス主義に取って代わった。一党支配体制のみが中国の台頭を保障し、国民的な屈辱に終止符を打つと考えられた。これを疑うことは間違いであるだけでなく、“非愛国的”であり、“反中国的”であった。

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