26歳で逝った五輪選手を戦争に駆り立てたもの 1940年「幻の東京大会」五輪は一体誰のものか

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

中国河南省北部の山岳地帯に立てこもる共産党軍と激しい戦闘が続く中、運命の日が訪れる。1939年7月10日、豪雨をついて、この日4回目となる攻撃が開始された。耳もつんざくような轟音、火砲の集中攻撃の後、聞多を含む15人の精鋭からなる突撃隊が結成された。

山頂付近に強固なトーチカを構える敵陣地の左稜線から岩をはいながら進撃を試みるが、手榴弾や迫撃砲が行く手を阻む。そして、聞多は果敢に斬り込んでいったが、敵の手榴弾を被弾、わずか26年の生涯を閉じた。

聞多の最後はほかの戦死者と変わらない、あっけないものだったが、その後の扱いは違っていた。新聞報道は聞多戦死の報を大きく扱い、「さすが五輪の花形」「壮烈鬼神の散華」「弾丸より速い突撃」と、派手な見出しを掲げた。オリンピアンの名声は、その死も戦意高揚に利用されたのである。

鈴木聞多氏の軍服姿。すべてを奪われたアスリートが受けた失意は計り知れない

埼玉県川島町ののどかな田園地帯の中に聞多の墓は今もひっそりと立っている。墓前に立った私たちの目に飛び込んできたのは、墓石に刻まれたこんな文言だった。

「皇国青年の士気を昂揚す」――当時の陸軍大将が揮毫(きごう)したこの言葉は、これから戦争に向かう若者たちの士気を高めるものとして、聞多の死を賞賛している。

いったいオリンピックは誰のためのものなのだろうか――私たちは墓前で、この言葉を複雑な思いで受け止めたたずんだ。

聞多を戦争へと駆り立てたベルリンオリンピックは、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党、つまりナチスが、ナチス・ドイツの国力、ゲルマン民族なるものの優越性を誇示するプロパガンダを旨とする一大事業だった。幻となった東京オリンピックも、関東大震災から復興した帝都・東京の“威容”と、日本建国の年(紀元)から2600年を寿(ことほ)ぐ壮大な祝賀行事として挙行されるものだった。

五輪を利用する政治と戦争に翻弄されるアスリート

その後、ドイツはポーランドに侵攻し戦争が始まり、日本も、アメリカ・ハワイの真珠湾を奇襲して英米に戦端を開く。1943年の秋、オリンピックのメイン会場となるはずだった明治神宮外苑競技場で、6万5000人もの人がスタンドを埋め、学徒出陣式が挙行された。その「戦争への行進」が行われた場所は、1964年と2020年のメイン会場の国立競技場である。

1980年には、マラソンの瀬古利彦(現・マラソン強化戦略プロジェクトリーダー)や柔道の山下泰裕(現・JOC会長)が、モスクワ五輪のボイコット騒動で、オリンピック出場の機会を失った。アスリートは、オリンピックを利用する政治と戦争に翻弄されてきたのだ。

今回の東京オリンピックは、東日本大震災からの「復興」を世界に示すことをテーマの1つに掲げてきた。しかし、いつしか「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」(3月24日安倍首相会見)にすると、新たなテーマが前面に押し出されている。アスリート・ファーストの立場に立てば、スポーツは、純粋にスポーツをする、スポーツを見て楽しむもので、何かほかの大義を掲げることに違和感を覚えるアスリートは多いのではないだろうか。

次ページ新型コロナウイルスと戦うアスリートに起きた変化
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事