26歳で逝った五輪選手を戦争に駆り立てたもの 1940年「幻の東京大会」五輪は一体誰のものか

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私たちNHKスペシャル取材班は、昨年8月にNHKスペシャル「戦争と“幻のオリンピック” アスリート 知られざる闘い」を放送し、手元に残る数多くの証言と資料から『幻のオリンピック 戦争とアスリートの知られざる闘い』にまとめて上梓した。

「アスリートからスポーツを奪うとはどういうことなのか?」「オリンピックとはいったい誰が誰のために行うのか?」――詳しくは拙著にまとめたが、今回の取材で、最も考えさせられた戦没オリンピアンがいる。鈴木聞多(すずき ぶんた)、26歳で戦死した陸上短距離選手だ。

1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックに出場したのち、次の東京オリンピックでメダルを期待されたが、大会の中止が決まると陸軍入隊を志願し、中国戦線で戦死している。

なぜ、聞多は競技場から戦場へと戦いの舞台を変えたのか、その答えを求め、私たちは埼玉県川島町にある聞多の生家を訪ねた。聞多の兄の孫である鈴木隆之さんから、土蔵に残る2つの遺品を見せてもらった。当て革をして使っていた陸上競技用のスパイクと、敵陣に切り込んだ際に中央部が刃こぼれした軍刀。それらを複雑な思いで見つめていると、隆之さんが意味深なことを語り始めた。

ベルリン五輪での“致命的なミス”

「聞多は初出場のベルリンオリンピックの後、次に予定されていた東京オリンピックでも期待され、練習に励んでいたそうです。なのに、その志半ばで陸軍に志願したのは、ベルリンでの“あの致命的なミス”が関係していると思うのです」

鈴木聞多がベルリンオリンピックに出場したのは慶応大学在学中の23歳。“暁の超特急”と呼ばれ、2016年リオデジャネイロ大会に至るまで日本人でただ1人の男子100メートルのファイナリスト吉岡隆徳と、若手のホープ鈴木聞多を擁する日本チームは、国民からメダル獲得を大いに期待されていた。オリンピックに初めて出場する聞多が日の丸を背負う重責を強く感じていたことを、彼は手紙や日記に残している。

「十年間、目標は常に日本的な選手となり日章旗のついたユニフォームを着ること。外国人相手に試合をすることはできるようになりましたが、日本人の意気を示すのは勝たなければだめです」

10秒6の自己記録をもって挑んだ100メートル。1次予選は順調に突破した聞多だったが、2次予選に臨む直前のレースで金メダル候補の吉岡が予選落ちすると、極度の緊張に襲われてしまう。

「私の気持ちは前の唯平常心の力を発揮するということにとどまらず、勝たなければならぬと云う気持ちが急に頭を持ち上げてきました」

得意のスタートで遅れた聞多は4人の選手と同タイムでゴール、写真判定に持ち込まれた。結果は4位、予選落ちしてしまった。このままでは日本に帰れない、そう自らを追い込む聞多は、個人レースの200メートルを辞退し、最もメダル獲得の可能性が高い400メートルリレーにすべてを賭けることにした。

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